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中国最初の宇宙飛行士となった楊利偉さん |
2003年10月15日午前9時、中国が独自で研究・製作した「長征2号F型」ロケットは、巨大な白煙を残して大空に舞い上がった。そのロケットには、中国初の有人宇宙船「神舟5号」が搭載されていた。中国西北部の澄み切った紺碧の空を突き抜けて、ロケットは宇宙空間に向け飛んでいった。
宇宙船には、これも中国初めての宇宙飛行士が乗っていて、平均90分で地球を一周した。宇宙船は、21時間23分後の10月16日午前6時23分、内蒙古自治区の中部にある草原に、無事、着陸した。
実際に着陸した地点と想定されていた着陸地点との誤差は、わずか4・8キロだった。着陸時刻は予定と一分一秒違わなかった。宇宙船のカプセルや器材の損傷はなく、宇宙飛行士も無事に帰還した。
飛行士は空軍パイロット
「楊利偉」――中国人はこの名前を長く忘れることはないだろう。彼こそ「神舟5号」に乗って宇宙を飛んだ最初の中国人だからである。
楊利偉さんは空軍のパイロット出身である。1987年、中国人民解放軍空軍の第八飛行学院を卒業し、空軍の航空兵、パイロット、中隊長を歴任した。これまでに戦闘機、地上戦闘攻撃機などの機種を操縦し、安全飛行時間は1350時間に達する一級パイロットである。
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胡錦涛総書記(右)は、これから出発する楊利偉・飛行士を励ました。後方に立っている二人は予備飛行士(撮影・秦憲安) |
1996年からは宇宙飛行士に選ばれた。2年に及ぶ厳しい選抜のすえ、彼は1500人の現役のパイロットの中で頭角をあらわし、13人の仲間とともに中国で初めての宇宙飛行士になった。その後5年の訓練を経て、彼は基礎理論や宇宙環境への適応性、専門技術など八つの分野の数十科目の訓練を終え、優秀な成績で宇宙飛行士の専門技術総合試験に合格した。
楊さんは1965年6月21日生まれの38歳。遼寧省葫蘆島市綏中県の教師の家庭に生まれた。彼の父母はともに建国初期に大学を卒業し、父親は教師をした後、行政部門の仕事に従事した。母親は県の中学校で国語の教師をしていた。楊さんには姉と弟がいて、一家5人は仲睦まじく、平穏な毎日をおくっていた。
父母の話によると、楊さんは小さいころ、非常に腕白だったが、頭の回転は速く、反応が機敏で、頭をよく使い、カギ大将だった。小学校を卒業し、優秀な成績で県の重点中学の優秀クラスに合格し、何回も、全県の中学生の数学コンテストに参加した。
妻の張玉梅さんは、楊さんと同郷である。張さんは楊さんと知り合う前から楊さんのことを知っていた。というのは、県誌に、パイロットになった人として紹介されていて、楊さんはすでに有名人になっていたからだ。結婚後、二人は夫唱婦随の家庭を築いた。楊さんが部隊とともに各地を転々と移動するのについて行ったが、一言も恨みがましいことは言わなかった。
張さんの生活は、航空機の飛行と深く結びついている。彼女は次第に気象士のようになり、視界がどの程度かによって飛べるかどうかを判断できるようになった。航空機が空を飛ぶ音は、彼女にとってもっとも気持ちの良い音楽になった。
現在、彼女は、「北京航天医学工程研究所」の実験師をしている。8歳になる息子の楊寧康君は、北京中関村の第一小学校3年生だ。
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北京の宇宙指揮コントロールセンターで、楊利偉飛行士と対話する妻の張さんと息子の寧康君(撮影・秦憲安) |
楊さんが「神舟5号」で宇宙を飛んだとき、彼の両親と妻、息子は、北京の宇宙指揮コントロールセンターで、大型スクリーン上に映し出された楊さんをじっと見つめていた。そして楊さんとの対話を行った。
楊さんの母は記者団に対し最初に「私は息子の実力を信じ、国家の科学技術の実力を信じています」と言った。たぶん多くの人が傍らで聞いているからだろう、楊さんと張さんの夫婦は、特に気持ちが通い合うような言葉は交わさなかったが、お互いに相手を気遣っている様子は顔の表情から見てとれた。息子の寧康君がかわいらしい声で「パパ、うまくやってね」と言うと、楊さんはすぐに感激して「ありがとう。いい子だ」といい、ずっと平静だった顔がこのときばかりは笑顔に変わった。
中国の宇宙船はここが違う
宇宙船「神舟5号」は、完全に中国人が自前で研究・製作したハイテクの成果である。宇宙船の外形はロシアの宇宙船「ソユーズ」とよく似ているが、機能的には大いに異なっている。
「神舟5号」は、これまでの米国や旧ソ連の、一人あるいは二人乗りの宇宙船とは違い、複数の船室から構成されている。このため宇宙船内の空間は比較的広く、宇宙飛行士は気持ちよく船内活動に従事することができるし、座席を離れて「軌道船」に移って科学実験活動を行うこともできる。
「神舟5号」は、軌道上で宇宙飛行士が船内活動をする「軌道船」、打ち上げや帰還時に乗る「帰還船」、動力部の「推進部」から成り立っている。これは「一室一庁」と呼ばれる。「帰還船」は中心的役割を担った船室で、宇宙船のコントロールと通信のセンターである。宇宙飛行士はここで宇宙船を操縦するだけでなく、ここで生活するので「室」(居間)に相当している。
「軌道船」内には各種の機器が装備されていて、これを使って科学実験や対地観測が行われる。宇宙飛行士は時々、ここにやってきて暫く活動することもできるので「庁」(客間)に相当する。
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楊利偉・飛行士は遥かな宇宙で、国連旗と中国国旗を掲げ、「宇宙の平和利用は全人類に幸せをもたらす」と中英両国語で地球に呼びかけた(撮影・秦憲安) |
宇宙船の基底部にある「推進部」は、動力を提供する。
宇宙船の全長は8・86メートルで、総重量は7790キロ、船内の空間は6立方メートルで、3人の宇宙飛行士を収容することができる。これは現在、世界で最大の利用空間を持つ宇宙船である。
米、ロの宇宙船と違うところは、「神舟5号」が「軌道船」の外側に一対の太陽電池のパネルを装備している点であり、それは巨大な羽と同じ役目を果たしている。「軌道船」は任務が完了し、宇宙船と分離された後も、宇宙空間に廃棄されることはなく、この羽が供給する電力を使って、宇宙に留まり、引き続き半年以上、科学技術衛星としての任務を行う。
宇宙飛行士にとってさらに重要なのは安全の保証である。このため、有人宇宙船を打ち上げる「長征2号F型」ロケットには、事故が発生した時に安全に宇宙飛行士が退避できる三種類のパターンが想定されて、組み込まれている。それは、「低空退避」「高空退避」「応急分離」である。
ロケットの先端部には長さ8メートルの退避塔が設置されている。ひとたび事故が発生すると、退避塔を動力とする退避飛行器が作動し、宇宙船の「帰還船」と「軌道船」を引っ張って、ロケットから分離する。これが「低空退避」である。「高空退避」「応急分離」も、これと同じような原理で、宇宙飛行士の安全を確保する。
こうした退避システムを含め「長征2号F型」には55項目の新技術が採用されている。これらの技術によって「長征2号F型」は、現在中国でもっとも複雑で、安全性がもっとも高い運搬ロケットになった。
1992年に有人宇宙飛行の実施が正式に決まったとき、中国政府は有人宇宙飛行を三段階に分けて発展させる戦略を提起した。その第一歩は、有人宇宙船の打ち上げを実現することであり、第二歩は船外活動とドッキング試験を完全に行うことができ、長期の無人飛行と短期の有人飛行をおこなう宇宙実験室を打ち上げること、そして第三歩は、さらに大きな、長期的に人間が活動できる宇宙ステーションを建設することだった。
中国の有人宇宙飛行工程弁公室の謝名苞主任は、次の「神舟6号」は1、2年のうちに打ち上げられることを明らかにした。
人類共同の事業
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地上に帰ってきた楊利偉飛行士は、自力で「帰還船」から出てきた |
有人宇宙船「神舟5号」の成功によって中国は、米国、ロシアに次いで、独力で自国の宇宙飛行士を宇宙空間に送り込んだ第三の国家になった。これは中国の誇りであり、アジアの誇りでもある。なぜなら、宇宙の探索は人類共同の事業だからだ。
「神舟5号」の成功後、北京外国語大学で留学生や教師たちに感想を聴いてみた。
中国に来てから半年の24歳の韓国人留学生、全星R君は「これは中国人の栄誉であるばかりでなく、アジアのプライドである。だから中国のために誇ると同時に、自分のために誇りたい」と述べた。
外国語大学で日本語教師をしている原誠士先生は「日本からみれば、宇宙技術は人類の共通財産であり、完全に商業的に利用できる。そのうえ現在、世界の宇宙開発の速度は非常に速い。中国は発展途上国なのに、かえってこの方面で絶えず努力をしている。その精神は賞賛すべきだ」と言った。
田中紀子先生も「地球上のすべての国がさらに高い目標を目指して共同の努力をすることを心から望む。『神舟5号』の成功は、全世界の共同の栄誉であり、今後、宇宙飛行の面で困難に遭遇しても、全人類は手をつないで、共同でそれを克服する必要がある」と述べた。
「神舟5号」が地球を回っているとき、日本で開催された第18回世界宇宙飛行士会議において、日本の宇宙飛行士で日本科学未来館の館長の毛利衛さんは、次のような発言を行った。
「中国の文化的背景を持った宇宙飛行士が宇宙を飛んだことで、宇宙や地球や人類に対し、米国や欧州、日本とは違った見方が生まれるかもしれない。このような新しい見方から生み出される新しい哲学が、世界文明に貢献することを、私は十分期待している」
毛利さんと同様に、すべての中国人もそうなることを期待している。
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中国人の宇宙飛行士が、宇宙で、口に合った美味しいものが食べられるようにと、宇宙食を研究している科学者たちは、食品の栄養の組み合わせを考えるだけでなく、中国人の飲食の特徴に
榲いて、中国の特色ある多くの宇宙食を開発した。この結果、宇宙飛行士は、 宇宙で、「宮爆鶏丁」や「魚香肉絲」「八宝飯」「米飯」「麺」などの中華料理を食べることができ、食後には漢方と栄養剤が配合された飲料または緑茶を一杯飲むことができるようになった。これらが家庭料理だからといって、軽く見てはならない。その価格は、地球上の大ご馳走よりももっと高いからだ。一人の宇宙飛行士が1日に食べる宇宙食のコストは、1万〜2万ドルになる。
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「神舟5号」は、宇宙飛行士の安全を確保するため、各種の装備を備えている。もし「帰還船」が地球上にもどった後、すぐに発見されないときは、宇宙飛行士は船内に備え付けられている救命用の物品を使って、しばらくは生存できる。万一、「帰還船」が水中に落下した場合は、船内の浮き袋が自動的に開き、重さ3トンの「帰還船」を水面に浮かせて、救援を待つ。また、野獣の襲来やその他の突発事件に備えて、宇宙飛行士には、短刀や拳銃などの自衛の武器が特に与えられている。
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宇宙飛行士の楊利偉さんが、全中国の注目を集めたが、8歳になる息子の楊寧康君も、同級生の間で人気者となった。寧康君は北京中関村第一小学校3年4組で学んでいるが、「康康(寧康君の愛称)のお父さんが中国初の宇宙飛行士になった」との知らせが入ると、教室中がたちまち大騒ぎとなった。学級担任の先生や同級生たちはみな、これを誇りに思い、一人の児童の親はわざわざバラの花束を贈ってきた。
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康康の同級生であるオヤ天雄君の父親は、楊さんの次の「2号予備宇宙飛行士」オヤ志剛さんである。二人は父親が同じような任務を持っているため、日ごろから仲が特によかった。自分の父が最初の宇宙飛行士になれなかったからといって、天雄君は決して失望したりはしなかった。「ボクのパパは、次に順番が回ってくるに違いないから」と言っている。
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楊さんの故郷の遼寧省綏中県では、「神舟5号」が打ち上げられたその日、県内で盛大な花火文芸の夕べが開催され、楊さんが中国初の宇宙飛行士となったことを祝った。楊さんがかつて在籍した綏中第二高等中学校も、祝賀活動を行い、全校の教師、生徒に「楊利偉に学べ」と呼びかけた。楊さんが当時属していた203組は、正式に「楊利偉組」と命名された。
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