2008年に北京で開催されるオリンピックに向けて、いま、北京は空前の建設ラッシュに沸いている。都市の容貌が日々変わるといっても過言ではない。

 だが、変わりつつあるのは目に見えるものばかりではない。人々の気持ちや生活習慣など、目に見えないものも、オリンピックに向けて急速に変わりつつある。

 開催まであと5年足らず。着々と準備が進む北京の「姿と心」の変化を追ってみた。

 
特集 (その1)

五輪精神が北京を変える


                    
北京市民は、さまざまなスポーツ活動を行ってオリンピックを迎えようとしている

 「オリンピック運動の目的は、スポーツを通じ、相互理解の増進と友好の精神にのっとって若者たちを教育し、より良い、より平和な世界の建設に協力すること」――これは、オリンピックの原則を定めたオリンピック憲章の第一章に明記された根本原則である。

 北京のオリンピック開催が決まったのは2001年7月。それからオリンピック精神は、次第、次第に北京の市民や子どもたちの間に浸透しつつある。不衛生な生活習慣が改まり、外国からの選手や観衆を迎える精神的な準備が整いつつある。五輪が成功裏に終われば、北京の市民社会は大きく変わるかもしれない。

もろ肌脱ぎのオヤジさんが消えた

東四社区の住民は、さまざまなスポーツ活動を行ってオリンピックを迎えようとしている(撮影・王浩)

 北京・東城区の東四に住む65歳の劉鉅のオヤジさんにとって、2003年の夏は、なんとも意のままにならない夏だった。例年なら、暑い盛りの「三伏」(夏の土用の日から30日間)には、服を脱いで、上半身は裸、パンツ一つという姿で自宅の門の前に陣取り、涼をとったり、近所の人たちとおしゃべりをしたりしたものだ。

 ところが昨年は、そうするわけにはいかなかった。暑くなって家の外に出たものの、劉さんはシャツを着て、長ズボンをはかなくてはならなかった。ときには流れる汗がシャツを通してしまったが、劉のオヤジさんは二度とシャツを脱いで、上半身裸になろうとはしなかった。

 それはなぜか。劉さんが住んでいる「北京東四社区(コミュニティー)」が「オリンピック社区」に指定されたからなのである。「オリンピック社区の人間は、きちんとした身なりをしなきゃダメだからね。もろ肌脱ぎでパンツ一丁という長年のみっともない習慣は、もう変えなきゃならねえんだ」と劉のオヤジさんは言う。

 「オリンピック社区」という言い方は、中国人にとって耳慣れないものだった。北京五輪の開催が決まった後、社区の住民たちにオリンピック精神を理解させ、さらに「新しいオリンピックを迎える新しい北京」の建設に参加させるため、東四の街道弁事処は真っ先に自分たちの社区を「オリンピック社区」とするという考えを提起したのだ。

 突飛にも見えたこの考えは、意外にも、北京オリンピック組織委員会の承認を得たばかりか、多くの住民に熱烈に歓迎された。街道弁事処弁公室の袁燕生副主任によると、住民たちは次々に投書してきて、いろいろな提案をした。「弁公室までやって来て、自分の考えを述べる人さえいました」と袁副主任は言う。

新しく設置された電気暖房の前に座った劉テンさん

 「オリンピック社区」を立派に建設するために、街道弁事処はまず住民に「健康で文化的な生活様式」を提唱した。これによって、ところかまわず痰を吐いたり、ゴミを捨てたりするマナーに反する現象は、以前に比べ大幅に減少した。「オリンピック精神は、心身の調和のとれた発展を求めています。私たちはそれを社区の建設に結びつけたのです」と袁副主任は言った。

 さらに社区に住む人々は、自発的に、社区内の『住民自律条例』を共同で制定し、その中で真っ先に、良くない生活習慣を改めることを規定した。また、社区が呼びかけて、住民が太極拳を学ぶようになり、すでに500人以上が、太極拳ができるようになった。

 東四社区は、北京の故宮の東北にあり、面積は1・53平方キロ。住民は4800余人。北京の古い街の改造事業で、伝統的な北京の街の姿を保存するため、この一帯には多くの平屋建てや四合院の住宅が残された。また、明、清時代の多くの王府(皇族の住宅)も保存された。しかし、平屋建て住宅には近代的な暖房設備がなく、暖房問題の解決が難題だった。

北京で開催された大型写真展「中国のオリンピック」。国際オリンピック委員会の何振梁副会長(中央)も参観した
第1回の北京国際ウォークラリー大会の出発前に、準備運動する参加者たち(撮影・陳剣)

 劉さんの家は平屋建てで、もう50年も住んできたが、これまでは冬になれば部屋の中でストーブに火を入れて暖をとってきた。暖房が効くかどうかはともかく、ときには一酸化炭素中毒の危険がある。そのうえ石炭を燃やせば、煙や煤が大気汚染を引き起こす。だがこの冬、劉さんはストーブを使うかどうかで悩む必要はなくなった。電気暖房を入れたからである。

 都市の大気汚染を減らし、住民の生活条件を改善するために、北京市は一部の平屋建ての住民区で、石炭から電気に転換する工事を進めた。東四社区もその中の一つだ。「お陰で、我が家もきれいになった。こうなると気分も変わるよ」と劉のオヤジさんは言う。袁副主任も「石炭から電気へというこの工事は大がかりなもので、オリンピックを迎えるための非常に重要な仕事でもあるのです」と言っている。

 これ以外にも、東四社区の中では、トイレの改造が行われた。文化・スポーツ活動センターも建てられた。自分たちの社区がますます清潔で、きれいになって行くのを目の当たりにして住民たちは、社区建設の意欲をますます燃やしている。一部の住民は、社区のシンボルマークや社区の歌の募集を始めた。

 劉さんが、自分の体験から、昔と今の北京を比較して綴った「私と新北京」と題する文章は、北京オリンピック組織委員会の第一回の作文コンクールで入賞した。「俺たちの社区がますますきれいになって、嬉しいよ。2008年には北京はきっと庭園都市のようになるに違いないね」と言うのだった。

オリンピックと子どもたち

子どもたちは、自分で描いたオリンピックの絵をつなぎあわせて、北京オリンピックのエンブレムの形を作った(撮影・楊振生)

 昨年9月21日は日曜日だった。学校は休みだったが、北京・展覧路第一小学校3年生の9歳になる屈碩ちゃんは、朝早く、母親に送られて学校にやって来た。ここから200余人の学友といっしょに、バスで北京・世紀壇の南の広場に向かった。この日、彼女はここで開かれた第一回の「北京2008」オリンピック文化祭の開幕式に参加したのだった。

 「文化祭に参加すると思うと、昨日の晩は興奮してよく眠れなかったわ。6時には起きてしまったの」と屈碩ちゃんは言った。

 彼女が北京オリンピックのために描いた絵が、北京オリンピック組織委員会主催のコンクールで選ばれ、他の児童の描いた百枚の絵とともに、この日、この広場で展示されたのだった。

屈碩ちゃん(左)は同級生といっしょに、五輪のマークの上に手形を押した(撮影・楊振生)

 屈碩ちゃんの作品は、3人の若者が「ヒ」中幡」と呼ばれる民間に伝わる雑技を演じている様子が描かれている。この雑技は、頭や肩の上に竹ざおを載せるが、竹ざおの先に、「オリンピック精神」や「緑のオリンピック」などと書かれたいくつかの幡があり、それがとくに人の目を引きつける。3人の若者はそれぞれ違った姿で描かれ、大変面白い。屈碩ちゃんの筆によって中国の伝統芸能の「ヒ」中幡」に、近代オリンピックの精神を吹き込まれたのだった。

 屈碩ちゃんの絵の先生である張燕さんはこう言う。

 「北京五輪の招致に成功してから、クラスの子どもたちの考えが生き生きとしてきて、次々にオリンピックに対する自分の構想を描くようになりました。ある子どもは、六面の画面を持つテレビを描きました。家中の人がこのテレビを囲んで、それぞれ自分の見たいスポーツ競技の番組を見るのです。『このテレビはもっぱら2008年のオリンピックのために設計したのです。こんなテレビがあれば、一家中でオリンピックの中継を見ても、互いに邪魔しあわないで済みます』とその子は言うのですよ」

 文化祭は午前十時に予定通り始まった。屈碩ちゃんは学友といっしょに、世紀壇の広場に行き、そこで、巨大な一枚の白い布の上に、インクをつけた自分たちの手のひらを押しつけた。こうして2008人の子どもたちの手形で作られた北京オリンピックのエンブレムの「舞い踊る北京」ができあがった。

オリンピックを控えて、武芸を演ずる子どもたち(撮影・孫鉞)

 北京オリンピック組織委員会の責任者の話によると、国際オリンピック委員会は2003年を国際オリンピック文化教育年と定めた。オリンピック精神を広く推進するため、北京オリンピック組織委員会は2003年から2008年まで、毎年1回、オリンピック文化祭を挙行する計画だ。今年はその第一回で、メーンテーマは「魅力ある北京 文化のオリンピック」である。

 今回の文化祭では、内外の著名な専門家、学者が参加するシンポジウムや講演会、歴代オリンピックのエンブレムの展覧会、中学生による英語のスピーチコンテストなど多彩な文化・スポーツ活動が催された。

 また、オリンピック精神は、北京の市民の中にも次第に浸透してきた。さまざまな球技やランニング、ダンスなどのスポーツ活動がますます盛んになってきた。

2008年を目標に鍛える

オリンピックの市民活動の日、かつての有名な卓球選手のケ亜萍さんは、公園で市民たちと卓球をして「切磋琢磨」した

 オリンピックの試合の中で、アメリカのバスケットボールのチームは「ドリーム・チーム」と呼ばれ、どの国も追いつけない抜群の強さを誇ってきた。これと同様に、中国人にとっての誇るべき「ドリーム・チーム」は、卓球チームである。

 北京オリンピックを控えて、中国の卓球チームの小さな選手たちはいま、何を考えているだろうか。北京先農壇体育場の中にある北京卓球チームの訓練基地に行ってみた。

 2階にある訓練ホールに入ると、ピンと張りつめた緊張感に包まれた。ここは北京卓球の女子チームの訓練場で、二十数名の小さな選手たちが、まさに精神を集中して訓練に励んでいるところだった。動作の一つ一つもゆるがせにしないことが要求され、広い会場の中は、ただ、ピンポン球の撥ねる音だけが響いていた。

 曹麗思選手は遼寧省の出身で13歳。卓球歴はすでに7年もある。彼女の最初の先生は自分の父親で、2年前、北京で行われた初の同年齢の招待試合での彼女の活躍に、北京チームのコーチたちが注目した。がんばった結果、彼女は遼寧から北京にやって来て、北京チームに加入した。

 驚くべきことに、彼女の両親は、彼女の生活の面倒を見るため、進んで遼寧での仕事を捨てて、一家を挙げて北京に引っ越してきたことである。父親は小学校の体育の先生となり、母親はホテルで仕事を始めた。

北京卓球チームの曹麗思選手(右)(撮影・楊振生)
プラカードを掲げた73歳の葉振山さんは、78歳の張桂馨さんといっしょに歩き、若い人たちの喝采を浴びた(撮影・陳剣)

 「北京オリンピック開催が決まったあと、私は北京に行って試合がしたいと思いました。ママはいつも『しっかり練習して、2008年に中国の代表メンバーとして試合に参加できるよう努力しなさい』と私に言いました」と曹麗思選手は言う。

 こうした両親の期待は、彼女にとって大きな圧力となった。卓球専門のチームの一員となった曹麗思選手の訓練生活は、緊張し、無味乾燥したものだった。一週間のうち、日曜だけが休息の日だった。平日は、少しばかりの普通の授業以外は、すべての生活が卓球の練習を中心に展開された。

 選手たちを教える李コーチは「北京オリンピック開催が決まった後、小さな選手たちの練習でのがんばりは、いっそうすごくなった。夜でも体育館にやって来て練習しています」と言う。

 チームメートの李夢嬌選手と黄抗抗選手は、内気な曹麗思選手とは違って活発な女の子だ。2人とも一生懸命、練習している。ともに北京の出身だ。

 オリンピックの話になると李夢嬌選手は「2008年以後の北京は、きっと車の渋滞はなくなるのじゃないかしら。青空と白い雲の日が多くなるにちがいない。北京っ子として、中国で初めてのオリンピックを開催するのは本当に誇らしいことです」と言う。

 また黄抗抗選手は「2008年のオリンピックでは、金メダルの表彰台に上りたいな。そうなればすごく光栄」と言うのだった。

警官は英語が必修

英語で外国人観光客の質問に答える北京の女性警官(撮影・倪欣文)

 「困ったときにはお巡りさんを探せ」。これは中国人が子どものころから覚えている言葉である。2008年に、オリンピックのために北京にやって来る外国の友人が、もし困ったことに遭遇しても、言葉が通じないのを恐れる必要はまったくない。北京市の警察官たちは、熟達した外国語で、外国の友人と意思を通じることができるようになるからだ。外国の友人の安全を保証しつつ、問題を解決してくれるはずだ。

 「それはかなり誇張した言い方だ」と思うかもしれないが、2008年になれば、それはきっと実現するに違いない。なぜなら、北京の警察の中で、英語の学習はすでに、すべての警察官の必修科目になっているからだ。

 北京公安局の教育訓練処の趙錏処長は「2008年のオリンピックが順調に運営されるのを保障するために、また、当面の安全面での国際的な情勢の需要に適応するために、北京の公安局は2002年から、警察官が英語を学ぶ活動を展開しています。学習班を作ったり、外国語養成コースに参加したりするなどの各種の方式を通じ、北京の警察官の英語能力は大いに向上しました」と言う。

 趙錏処長自身、英語を学んだ警察官の代表的な存在ということができる。彼は毎日、仕事が終わると、英語のテキストを必ず読むことにしている。少し前に、彼は職場の英語養成班に参加したが、進歩は特に速かった。いっしょに学ぶ仲間には、三十数歳のまだ若い警察官も、40、50の歳のいった警察官もいたが、英語の学習にかけては、みんなやる気満々だった。

 「多くの警察官は英語学習を始めたばかりで、発音は必ずしも良いとは言えないが、授業のたびにみんなが積極的に発言しています。かなり歳のいった一部の警察官も、英語を学習して自分の資質を高めようとしているのです」と趙錏処長は言い、警察の英語学習の目標を紹介してくれた。

 それによると、英語学習が始まってから、2002年の一年間だけで、3000人以上の北京の警察官が英会話の試験を受け、70%が合格した。2003年に試験を受ける警察官は6000人に達した。英語の学習はすでに警察官の勤務外に行う重要な任務となった。

 2008年には、北京市の警察部門では、500人の高級通訳の警察官が養成され、3万人以上の警察官が英語の初級水準に達すると予測されている。オリンピック競技が行われる競技場や体育館はもちろん、選手たちの宿舎も、英語に習熟した警察官が外国の友人の安全とサービスを保証することになる。

 「北京オリンピック組織委員会は、オリンピックを招致する時に、北京が安全で、犯罪率の低い国際大都市であるといって申請しました。だからこそわれわれ警察官は、北京にやってくる外国の友人に、高い水準の安全の保証を提供しなければならないのです」と趙錏処長は言うのである。