[古村探訪] 江西省・舟湖村


山中にあらわれた 船形の大邸宅

                   文 虞暁宇 魯忠民  写真 魯忠民


舟湖村の「船形古宅」を見下ろすと巨大な母艦のようだ

 江西省黎川県の県城(県庁所在地)から北へ40キロの山中に、舟湖村はある。30あまりの集落からなり、合わせて394戸、約1700人が住んでいる。福建・江西の省境にあり、その昔は交通の要衝だった。やがて自動車道が開通し、古道を行く人は少なくなり、村もだんだんと忘れられた。しかし、2001年に「船形古宅」(船の形をした古い邸宅)というタイトルの報道がなされ、村の名前がたちまちにして広まった。

「船形古宅」の正門を入ると、がらんとした大きな庭だ

 その年、村がまだ有名でなかったころのこと。隣の浙江省から東陽影視城(映画村)の人々が機材をかついで、三度もここを訪れた。舟湖村の邸宅を一つ購入し、それを東陽影視城に移築しようとしたのである。地元・黎川県の記者がそれを耳にして、古い邸宅を写真にのこしたいと考えた。意外にも、その外観は高い地点から見ると、まるで一艘の船のようだった。巨大な軍艦を思わせるほど立派であった。こうして「船形古宅」の存在が明らかになった。まるで一石を投ずるかのように、マスコミ各社が次々とやってきてはそれを報道し、専門家や学者たちの注目を集めたのである。

中軸線上に重なる門は、人を奥まで吸い込むようだ

 山の坂道を上ると、舟湖村が一望できた。村は緑の山々に抱かれ、その周りを弓形をなしてとり囲むように小川が流れている。その名のとおり、巨大な船形の邸宅が眼下にそびえ立っていた。高さ6メートルの外壁が、「船」の輪郭をハッキリと表していた。黒い瓦屋根は広々としたデッキであり、「馬頭牆」と呼ばれる切妻壁は、尾翼を上げた銀色の飛行機のよう。まさに堂々とした軍艦の雰囲気だった。

黄家の家族祠堂。春節になると、家族全員で香を焚き、祖先を祭る

 「船形古宅」の周りには、黒い瓦屋根と白い壁の伝統的な家屋や祠堂、倒壊した古い家、新築された家などが建ち並び、まるでさまざまな軍艦が混じる艦隊のようだ。「船形古宅」を中心として、それが大小の軍艦を従え、風に向かい、波に乗って、前進しているように見えた。

 村落の構造を見ると、「船形古宅」の周りにある新しい建物は、村全体の雰囲気とは不釣合いであった。案内人の話によれば、そこはもともと池だった。池は貯水のためだけでなく、風水を考えたのだ。船は水と離れられないからである。

もとの家主といまの住民

黄家の祠堂の建築装飾

 『県誌』によると、ここの「船形古宅」の敷地面積は10ムー(1ムーは約6・667アール)。正門を入ると、300平方メートルほどの大きな庭があり、地面には丸石が敷かれていた。向かって左に大きな影壁(目隠しの塀)があり、その向かいが門楼(屋根つきの門)だ。それは中軸線上に立ち、じつに堂々とした雰囲気である。

 昔は門楼に扁額がかかり、「大夫第」と刻まれていたそうだ。かつて黎川県からは、文人が次々と輩出された。県が成立した南宋時代から清代末期までに、「進士」(古代、科挙の殿試の合格者)は171人、「挙人」(明・清代の郷試の合格者)は480人にのぼった。彼らはそれぞれ役人になり、故郷に錦を飾り、土木工事を大いに行い、豪邸を建てた。舟湖村には、かつて十数の豪邸があったのだという。

退職した鄒成国さんの家。すべてこうした木造で、天井が高い

 門楼を入ると、中央の通りには三重の門と三つの中庭、三列に並ぶ部屋がある。一番奥は、祖先の位牌をまつる祠堂だ。中央の通りが3本の横道を貫いており、それぞれ両側にある三つの中庭と部屋に通じている。この邸宅には、36の中庭と百八の部屋があるが、ふつうの豪邸と異なり、客間や書斎、閨房(女子の内室)、花園などそれぞれの機能をもつ建築物はなかった。宿舎のように部屋の構えが同じで、風通しと採光にすぐれているのだ。

両側へ通じる廊下

 邸宅の「へさき」の部分は尖っており、台所と物置の部屋になっていた。排水のシステムが完備されており、住民の話によると、建設されてから160年あまり、下水道は一度も詰まったことがないという。

 中庭の右の部屋に住んでいる鄒成国さん(63歳)が、自宅を親切に案内してくれた。部屋の天井は高く、2階建て。2階は、道具や食糧を置いた物置であるばかりか、漢方薬の陰干しにも使われていた。一階は板で隔てた4つの部屋からなっており、1つは客間、ほかは寝室である。中庭の左側には、さらに2つの台所と物置の部屋があった。

台所

 鄒さんは、1985年にこの家を買った。7つの部屋からなるこの家は当時、2270元(現在1元は約15円)しかかからなかった。鄒さんは2キロ近く離れた上陳村に生まれた。上陳村には昔、舟湖村の地主の土地を借り、耕作をする小作農家が住んでいた。彼らが住んだ建物は、山に寄りそうようにして建てられた  木造の「吊脚楼」(高床式住居)であった。鄒さんには一男三女があり、すでにみな結婚して外の家に住んでいる。鄒さんは水田を2ムー、竹林を3ムー、雑木林を2ムー抱え、年間収入は1000元ほど。県の「供銷社」(かつて農村に設けられた販売協同組合)の定年退職者なので、ほかに月360元の退職金をもらっている。

「船形古宅」の後方に、河へ通じる石畳の道がある

 「船形古宅」の百八の部屋には、数年前まで20数戸が住んでいた。いずれももとの家主ではなく、もと家主の遠戚もいれば、土地改革(封建地主の土地・家屋などを無償没収し、貧農に分配するなどした40〜50年代の改革)後、家を分配された小作農家もいる。

 現在、「船形古宅」に住んでいるのは、わずか7戸。老人たちが数えたところ51人ほどが住んでいて、常住するものが32人。そのほとんどが老人と子どもだそうだ。最高齢者は90歳のおばあさんだが、いまでもじっとしていられない性格で、自らすすんで洗濯などをしているようだ。

 鄒さんものんびりしていられない人で、退職してからは公益事業にたずさわっている。かつて中庭には井戸が一つしかなく、それはおいしい水だったが、不便であった。96年冬、鄒さんは住民の出資をとりまとめて、山上の泉から家の中まで水道管を引いた。それは本物のミネラルウォーターだった。老人によれば、この大邸宅には住み慣れている。冬暖かく、夏涼しい。それに夏でも、部屋にはハエ、カが入らないという。

典型的な「徽派」(安徽省の地方一帯)の民家様式。立派な「馬頭牆」が中庭を隔て、防火するために役立っている

 記録によれば、「船形古宅」は清代の道光24年(1844年)に、地元の黄平安という豪商によって建てられた。言い伝えによると、黄氏は若いころ外へ商売に行き、その30年後、黎川、福州、台湾などの地に20数カ所の質屋をもった。風水師を招き、縁起のよい場所を選んでもらって、この大邸宅を建設したのだ。

 ところが豪邸は建てたが、あまりここに住まなかった。というのも言い伝えによると、黄氏は家を新築した後、盛大な宴を開いて大勢の客を招いた。いそいそとしながら客を連れ、正門をくぐって新居に入ろうとしたその時、にわかに怪しい風が吹き、妻のスカートをすとんと落とした。そのため、それは「不吉の兆しである」と、正門の向きを変えさせた。その後、商売上の原因か、スカートの件をきらったためか、黄氏と6人の息子は、あまりここに住まなくなった。ふつうは同族の者が住み、家を守った。のちに世の変遷をへて、家主の音沙汰がなくなったという。

秘密組織「洪門」のルーツ

残念ながらたくさんの古い家屋がとり壊され、新しい家屋が建てられている

 舟湖村の「船形古宅」が大きく報道された後、隣の南城県と広昌県でも3カ所の「船形古宅」が発見された。規模や様式は異なるが、いずれも船の形をしており、36の中庭と108の部屋があるという。なぜ、「船形古宅」が異なる場所に現れたのか? なぜ、ふつうの民家ではないのだろうか? 非経済的で、広い敷地をもったこうした建物が、どのような意味をもつのか? 「洪門」を研究する専門家の陳江氏は、考察を重ね、数々の証拠を集めた結果、この建物は「洪門」という組織がひそかに集会していた場所だと推測している。

 洪門は「天地会」とも呼ばれ、明代末期に「反清復明」(清に抗し、明を回復すること)をモットーとして活動した秘密組織であった。かつて多くの変名があったが、対外的には「天地会」と、対内的には「洪門」と称していた。

吹き抜けで陽光をとりこむ中庭

 多くの言い伝えによると、天地会の創始者は鄭成功であったという(鄭成功は、明の皇帝の姓である「朱」を賜り、「国姓爺」という号をつけられた)。「洪門」という名前の出所には二つの説があり、一つは明の太祖の年号「洪武」からきたという説、もう一つは「漢」という字からきたという説である。その昔、漢人に属した中原の土地が「韃子」(かつての蒙古人)に占領され、土地がなくなってしまった。そこで「漢」という字から「中土」(中原の地)を取ると、「洪」という字になったというものである。

通りに面した正門、横道に通ずる門、邸宅の大門など、門の中に門がある。いずれもレンガと石造りで、高い壁は防火用だ

 洪門は、一心に明の権力を取り戻そうとして、義侠心を重んじた。『水滸伝』の物語にならい、義兄弟の契りを結んだ。清の鎮圧に対して、厳密な組織と連絡方法があり、連絡するさいには暗号や隠語を使った。数字の36や108は、いずれも『水滸伝』の36の北斗星と、108の勇将(豪傑)からきており、隠語として使われた。洪門の史実とルールを記録した『会簿』のなかには、「同舟共済」(同舟の者は、ともに助けあうこと)、「反清復明」のモットーを表す「洪船」がなんども出てくる。

 陳江氏の話を聞いて、舟湖村の「船形古宅」を思いおこした。おそらく、そこの家主は洪門の中心的人物で、極秘の使命を帯びて故郷へ戻った。集会を開くために義兄弟たちがひそかに集まり、拠点を築いた。正門内にある大きな庭は、軍事訓練をする場所だったのかもしれない。

 邸宅ができたばかりのころ、突然変乱が起こって家主は戦死したか、逃亡してしまった。村の付近には、確かに清の軍隊が山賊と戦い、死傷者が多く出たという伝説があった。歴史は勝手に想像し、誇張することはできないものだ。歴史の謎は専門家たちが考証し、それが解明されるのを待つほかないのだ。