痩西湖の蓮花橋と白塔

 「故人 西のかた黄鶴楼を辞し、煙花3月 揚州に下る」(李白の「黄鶴楼に、孟浩然の広陵に之くを送る」より)。

 千年このかた、李白のこの名句に惹かれて無数の文人墨客が、江南の地の名城であるこの揚州に魅せられて、ここに永く滞在した。

 揚州は中国の江蘇省にあり、南は揚子江に臨み、北は「蜀岡」という山を背にしている。北京と杭州を結ぶ京杭大運河は曲がりくねりながら城内を流れている。

痩西湖に遊んだ乾隆帝が当時、舟に乗り込んだ「御埠頭」
定年退職したお年寄りたちは、痩西湖の畔にある庭園で芝居の一節をうなる

 揚州城の始まりは、3000年以上前の古のカン国にまで遡ることができる。唐の天宝年間(742〜755年)には、内戦のため、北方の住民が大挙して南へ避難してきた。この結果、揚州は全国で最大の経済都市となった。1982年、揚州は国務院の第一次の中国歴史文化名城の一つに認定された。

 揚州でもっとも有名なのは、痩西湖である。痩西湖は揚州城の北西に位置している。湖面は、錦の帯のように曲がりくねって、所によって広くなったり狭くなったりしている。隋・唐の時代(581〜907年)には、湖のほとりに沿って庭園が続々と建てられた。清の時代(1644〜1911年)には、康熙帝と乾隆帝がそれぞれ六回も、揚州を経て江南を巡幸した。

揚州流の盆栽は、中国の盆栽の五大流派の一つである。いま、痩西湖で展示されている盆栽のなかには、明の時代に造られ、いまに伝わるものもある。

 杭州の西湖に比べれば、痩西湖には枯れた味がある。曲がりくねった湖畔の小道の両側に、古典的な庭園が巧みに組合わされている。それらは互いに景色を借りあっており、庭園の中に庭園があったり、風景の中にまた別の風景があったりして、まるで立体的な山水絵巻のようだ。これが「長堤春柳」、「梅嶺春深」、「西園曲水」、「巻石洞天」、「四橋煙雨」、「白塔晴雲」などと呼ばれる有名な「二十四景」を構成している。

 ここに遊ぶ人々は、湖に舟を浮かべたり、長堤をゆったりと歩んだりして、古人が何度も詠った詩の世界にひたることができる。現在、痩西湖は、国家旅遊局から重点観光地に認定され、年間、120余万人の観光客が訪れている。

民間の芝居が痩西湖の遊覧船上で上演されている。

 痩西湖と同じく有名なのは、揚州の古典的な庭園である。昔、揚州は、交通の要路でもあり、経済がかなり繁栄したところでもあった。このため、多くの豪商がここに集まってきた。そして徽州の工匠たちがやってきて、徽州の建築の手法が導入され、蘇州庭園をモデルにして揚州の庭園が造られた。このため揚州庭園は大量に造られたばかりでなく、中国の造園芸術の中で独特の風格を持つ一派を成した。国の重要文化財として保護されている「何園」と「个園」は、揚州の古典的な庭園のなかでもっとも傑出した二つ典型である。

何園の「複道」の回廊
個園の築山の一つ、秋の築山

 何園は、清の光緒9年(1883年)に建てられた。園の主は、湖北の道員(政務監察長官にあたる)を勤めた後、隠退して揚州に帰ってきた何芷?という人である。この庭園は、後方にある花園、住居と中庭、平たい石で造られた書屋の「片石山房」から構成されている。楼閣の一階と二階の廊下は「複道」といわれ、空高く架けられて曲がりくねっているので有名だ。庭園内にある住宅は、中国と外国の建築技術を一体として融合して建てられたもので、「片石山房」は、清の有名な画家、石濤和尚が設計したものだ。

 个園は、両淮塩総(淮南と淮北の塩の総監督官)であった黄至インが、清の嘉慶年間(1796〜1820年)に、清代初めに造られた壽芝園の遺跡の上に造った庭園である。園主の黄至インは竹を好み、清の詩人の袁枚が書いた「月は竹に映じて、千の个の字と成る」という句から、「个園」と名付けられた。

昔の面影を残す揚州の街並み

 个園は、竹と石を主としている。そのうちもっとも有名なのは、「四季の築山」である。春の築山にはタケノコに似た石が不ぞろいに並び、夏の築山には清らかな深い淵がある。秋の築山は黄色い石と赤い楓があり、冬の築山には雪のように白い宣石(安徽省寧国県から産出する石)がある。

 歴史的、文化的な名城としての揚州は、世界の人々に多くの宝物を残した。唐代に日本に渡った鑑真和尚も、揚州の出身である。揚州を歩いてみると、その悠久の味わい深い思いにとらわれるのである。

 メモ

 交通:飛行機、列車、バスで南京に着いてから、バスで揚州に向かう。
 宿泊:京華大酒店(四つ星)、新世紀大酒店(四つ星)
 食事:富春大酒店(予約の電話番号:0514-735777)
 痩西湖の入園料:45元
 痩西湖の遊覧船:20人乗りの船は、1人80元(入園料込み)