鶏冠壺は鶏のトサカの形をした水入れである。それは、中国西部の遊牧民族が使用する革製の扁平な壺から由来している。考古学的には、陶磁器製や木製、あるいは白樺の皮で作られた鶏冠壺は、古代、契丹が分布していた区域のいたるところで発見されており、これは契丹がもっとも早くから革製の鶏冠壺を使用した民族であることを示している。
唐代(618〜907年)には、毎年、契丹王が大勢の貿易使節団を率いて長安にやって来て朝貢した。そして中原(黄河の中、下流域)に行き、商業や貿易に従事した。ここから草原の革製の鶏冠壺が中原に伝わった。鶏冠壺は馬上、携帯するのに便利だったから、中原の人々にとっても馬に乗る時、携帯するのに適していた。そして、陶磁器や金銀などの硬い材料を使って作られた鶏冠壺の複製品が中原に現れた。
鶏冠壺は本体が湾曲していて、湾曲した馬体にぴったりとくっつく。壺の上部の一方に、高くて細い注ぎ口が付いていて、馬上で水などの液体を飲むのに便利だったし、激しく揺れ動いても壺の中の液体が外に漏れることもない。
907年、契丹は中国の北方に遼という王朝を開いた。遼は1125年まで続き、200年以上もここを統治した。鶏冠壺も革製から陶磁器などのさまざまな材質で作られるようになった。
遼代の鶏冠壺は、会同四年(941年)に葬られた耶律羽の墓から出土した。墓の中には8点の鶏冠壺があり、壺の本体はきめが細かくて白く、釉薬の色はつやがあり、見事に焼かれた逸品である。専門家の研究によると、この壺は、おそらく中原から来た工匠の手によって作られたもので、明らかに唐代の特徴を持っている。
写真の鶏冠壺は、出土した八点のうちの一つで、主に牛乳などを入れるに使われたので、容積はかなり大きく、大きな碗に入れて飲むのに適している。中原の注壺(注ぎ口がついた壺)が主に茶や酒を飲むのに用いられたので、容積が小さく、小さな碗や盃などの容器に入れて飲むのに適していた。
遼代の墓の中に鶏冠壺と中原式の注壺が共存していたことは、契丹人が外部から来た生活様式を吸収する際にも、遊牧民族の伝統的な習慣を保ち続けていたことを示している。
鶏冠壺の様式と装飾は、遼代の中期以後、かなり大きく変わった。壺の本体が長方形になった。装飾は主に、中原風の牡丹や草花、竜や猿、人物などの図案にとってかわられた。釉薬の色は緑、黄色、濃い褐色、濃い緑などの色が増えた。
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