七杯で七様の味わい
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@剣南蒙頂石花・小方または散芽とも呼ばれる(四川省雅安市名山県) Oキ州キ門団黄(湖北省黄岡市キ春県)、 などです。中でも四川省蒙頂山の石花という茶葉が最高であると断言しています。後人の「揚子江心の水、蒙頂山上の茶」という聯や、白居易(白楽天)の詩『琴茶』「琴里知聞するは唯ロク水、茶中故旧なるは是れ蒙山」にも蒙頂山茶が詠われています。 唐代、南方では43の州と郡がすでに茶葉を生産していたといわれています。ですから、唐代は中国の茶葉生産の基礎を固めた時期ということができます。この頃、北方ではまだ茶葉は生産されていなかったので、南と北では茶葉貿易が行われていました。『封氏聞見記』に「茶は江淮地域(長江と淮河流域)から運ばれてきた。多種類の茶は山積みして舟と車で、運送されてきた」と記述されています。
そこで、唐王朝は財政収入を増やすため、茶葉に課税をかけたのです。『旧唐書』「食貨志」に、唐の文宗建中元年(780)から「天下の茶、漆、竹、木から十分の一の税金を取る」と書かれていて、『旧唐書』「文宗本紀」には、大和九年(835)に初めて茶葉専売制度が制定されたと記録されています。 朝廷は、毎年各地に高級銘茶を献納させると同時に、浙江省湖州市の顧渚山に「貢茶院」と呼ばれる宮廷専用の「紫笋茶」を生産する工場を設けました。こうして各地の製茶技術もますます向上していったのです。 唐代には茶について詠った詩人が多くいます。有名な詩人、李白、杜甫、白居易、杜牧、柳宗元、盧仝、皎然、斉己、皮日休、顔真卿、鄭谷、元。……など百余人が、茶事に関連する詩編を約四百首、茶葉の詩文を約七十首創作したと言われ、中でも盧仝の『筆を走らせ孟諫議の新茶を寄せらるるを謝す』という詩は最も有名です。非常に長い詩なので有名な部分だけ抜粋します。 一碗喉吻潤、 一碗すれば喉吻潤い、 【通釈】 もちろん、唐代のお茶は今日のようなお茶ではありません。当時は団茶(お茶を固めて作ったもの)を砕いて鍋に入れ、お茶を煮て飲んでいたのですから、今日のお茶を飲んだ感覚でこの詩の通りに感じることは出来ません。 しかし、お茶の特性が良く表れており、当時の人々がお茶に対して感じていたことは、相通ずるものがあると思われます。盧仝が飲んだお茶は、詩文の中から見ると常州義興紫笋のお茶らしいのですが、お茶を飲むことに関して精神的にも文学的にも唐代の人は、喫茶の楽しみと意義が分かり始めたと思われます。 ※中国の行政区分では、「市」の下に、さらに小さな行政区分としての「市」があることがある。 |
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