酒にも勝る茶の魅力
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唐代茶文化と言えば、やはり陸羽(733〜803)とその名作『茶経』ということになります。陸羽は字を鴻漸、疾、季疵と三つ持ち、桑苧翁と自称しました。 また復州竟陵(湖北省天門市)の出身であることから、人々から竟陵子とも呼ばれています。陸羽の出自は分かりません。捨て子であったと言われ、龍蓋寺の智積禅師に育てられたようです。 唐の至徳元年(756)、当時24歳の陸羽は安史の乱を避けるため、故郷を離れ江南地区に渡り、浙江省の湖州のチョウ渓に庵を結んだのです。陸羽は14年をかけて研究した茶事の心得を整理して『茶経』を著し、10年後に補足を加えて、唐の建中元年(780)に正式に出版されました。 内容は、 と十章に分かれ、唐代までの茶葉の歴史、産地、効果、栽培、採取、製茶、煎茶、飲用についての知識と技術を論じています。 これは世界で最初の総合的な茶学著作となりました。これまで、単に習慣に従って飲用していた茶は、これ以後、生産から飲用に到るまで、工夫や研究が進むことになり、中国の茶葉生産の発展及び飲用風習の広がりに大きな役割を果たすことになります。 『封氏聞見記』には、「楚の出身の陸羽という人が茶を論じる著作を創作した。茶の効果及び茶を煎じる方法、乾燥の方法、形を作る方法など茶に関する24の問題を述べた。それ故、茶道が盛んになり、貴族から朝廷の役人までみんな飲むようになったのである」と記されている。
また、皮日休著『茶中雑咏』に、「陸羽以前に、茗というものを飲む人は、いい加減に茶を煮込んで飲んでいた。普通の野菜スープと変わらない飲み方である。陸羽が『茶経』を三巻創作して、茶の源、製造道具、作り方、茶器、煎じ方を紹介した。これに従って飲んだ人の病気が治ったので、茶は医者より病気の治療に効果があると言われている」とあって、陸羽に対する評価は非常に高く、後に陸羽は「茶聖」「茶神」と呼ばれるようになったのです。 このように、陸羽は中国茶の歴史上、不朽の功績を残しました。その後、陸羽は、信州(江西省上饒市)や洪州(江西省南昌市)、無錫(江蘇省無錫市)、越(浙江省紹興市)等にも足跡を残しています。 『茶経』が書かれた湖州で、肝胆相照らす友人、皎然と深い交わりを持っています。皎然は詩僧として知られ、湖州の出身でお茶に関しても深い理解のある人物でした。『飲茶の歌・崔石使君を誚む』で次のように詠っています。(一部抜粋) 一飲滌昏寐、 一たび飲めば昏寐を滌い、 【通釈】 このように、陸羽だけが茶道の真髄を理解していると言っています。また、『九日陸処士羽与茶を飲む』では、 九日山僧院、 九日山の僧院、 【通釈】 人々は、お酒がよいと飲むが、誰が理解しているだろうか、茶の香りこそ人生の友だと。 と詠い、二人が本当にお茶を愛した友人であったことが分かるのです。(2004年4月号) |
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