発展する塘沽の素顔
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文・写真 金鐘 唐正
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「塘沽」は、戦前派の日本人にはなじみの深い地名である。天津の外港として、日本と中国大陸を往来する大型の貨客船が出入り、華北の海の窓口だったからである。その塘沽が、港湾だけでなくハイテク基地としても新たな発展を始めた。日本との長い交流に加え、新たに日系企業の投資が増加している。塘沽とはどんなところか。その将来の可能性は―― 長い歴史もつ海の要衝 「塘沽」という地名をよく見ると、土ヘンもあり、サンズイもあり、土と水のある豊かさを象徴している。だが、800年前までは、ここは海だった。 中国の母なる大河・黄河は、大洪水のたびにその川筋を変えることで知られているが、その昔、流れを北に変え、海河に注いだことがある。土砂を多量に含んだ黄河の水は、猛烈な勢いで海河の海口から渤海に流れ込んだ。そのため、海河の河口は土砂が堆積して広々とした平野となり、海が畑に変わった。まさに「滄海」変じて「桑田」になったのである。 元の時代、塘沽は、首都の大都(北京)に一番近い港として、「都の海の玄関」の機能を果たした。
1283年、朱清と張喧という二人の元朝の役人が、海上輸送ルートを切り拓いた。中国では歴史的に、南方の食糧を北方に運ぶ「南糧北調」が運河を通じて行われてきたが、泥の堆積で運河が塞がれ、輸送に支障をきたすことがよくあった。だが海上輸送ルートの開設によって、もはやその心配がなくなった。塘沽は、船の帆柱が林立する、中国の北部では最初の海港となったのである。 清の時代になると、ここは北方の「海の玄関の要塞」となった。康煕帝、乾隆帝が何回もここを巡視した。清末に起こった洋務運動の総帥、李鴻章(1823〜1901年)は、ここに「大沽造船所」をつくり、中国最初の近代大工業の基礎を築いた。 海防の任に当たる歴代の官僚は、ここに海防のための大きな施設を、一つまた一つと構築していった。中でも塘沽砲台は、当時、外国侵略者を撃退するために勇敢に戦った軍民が、民族の不屈な気概を示したところで、中華民族の手本とされている。後世の歴史家たちは、外国の侵略者と戦った広東省の珠江河口にある虎門の要塞とともに「南に虎門あり、北に塘沽あり」と称えた。 新中国成立後、塘沽のいっそうの発展が始まった。毛沢東主席は塘沽港の開発と建設を重視し、何回も来訪し、自ら指導し、布石を打った。 1952年10月17日、塘沽港は第一期工事が終わり、一万トンクラスの巨船が直接、埠頭に接岸できるようになった。第2期、第3期工事の完成で、塘沽新港(いまは「天津新港」と正式に命名された)はアジア最大の人工港となった。 港区の陸地面積は37平方キロ、2003年の貨物取扱量は1億5000万トンを超え、中国の港湾では第2位の、中国北方では最大の、国際貿易港となった。 豊かな人材と資源
塘沽区は天津市東部の、海に臨む市街区で、面積は859平方キロ。海岸線の長さが92キロあり、海河という川が流れ、海に面した風光明媚なところである。この水域からは、有名な渤海のエビやワタリガニなどさまざまな海産物がよくとれる。延々と続く干潟は養殖業の発展に適し、広々とした海水域は、各種の水上娯楽と観光の発展に有利な条件を備えている。 塘沽区の人口は56万人。区内には、国家重点職業専門学校や濱海職業学院、職工大学があり、毎年、大量の専門技術を持つ人材を養成している。 塘沽の人々の気質は誠実で粘り強く、情が深いのが特徴だ。人々の話す天津語は耳に心地よく響くので、有名な相声(漫才)の芸人には天津出身者が多い。天津語の抑揚や間のとり方は、歌のようで、「津味児」(天津の味わい)と呼ばれている。 天津には有名な「狗不理包子」という肉饅頭がある。日本にも店を出しているので、知っている人も多いことだろう。 天津で生まれた弘一法師(1880〜1942年)は、日本と深いつながりがある。彼は本名を李叔同といい、1905年4月、25歳の時、日本に渡った。日本には六年間留学し、美術、音楽、新劇、詩、書道、印章のいずれにも通じ、有名な「春柳社」の創立者の一人となった人物である。 「春柳社」は1906年、東京で結成された中国の総合的芸術団体で、日本と中国で、中国の新劇を上演し、民族の独立と民主革命に大きな役割を果たした。彼は38歳で出家し、「南山律宗大師」として国際的にも知られる人物となった。 もう一人の仏教の大徳―― 虚という人物も塘沽出身である。 虚大師は中国で13カ所の仏学院を開き、塘沽には大悲院を、香港には湛江寺を創建し、仏教学を広め、仏教教育を行った泰斗と言われ、1963年に亡くなった。 また、塘沽区は未精製塩、石油、天然ガス、地熱などの豊かな資源にも恵まれている。中でも百里の塩田は、有名な「長蘆塩」の生産基地であり、渤西油田は中国初の海洋石油・天然ガス田である。 中国における塩やアルカリの製造、造船、海洋石油、海洋化学工業は、いずれも塘沽から興った。塘沽は中国北方の近代工業発生地とも言える。 目を見張る塘沽の発展
1986年、国務院(政府)は「塘沽を中心とする濱海地区に重点を置いて建設しよう」と特に指示した。度重なる開発や建設を経て、今日の塘沽は、昔日とは比べることができないほど発展した。経済は持続的に成長し、社会は繁栄し、人民の生活水準は絶えず向上している。 2002年の塘沽区の国内総生産(GDP)は618億元に達し、天津市の30・6%を占めた。外国貿易における輸出額も64億6000万ドルで、天津市の55・7%を占めた。塘沽区の工業生産額は1250億元に達し、一人あたりの収入は毎年9%ずつ増えている。 塘沽区は、四方八方に通ずる交通ネットワークの中心にあり、陸、海、空の交通の要衝になっている。 北京と山海関を結ぶ京山鉄道や山海関―広州の山広高速道路が塘沽を通過していて、中国の東北、華北、西北地区を結んでいる。京津塘高速道路などの交通網によって、塘沽区は北京、天津と一体化している。塘沽区から北京空港までは、車で一時間半しかかからず、天津濱海国際空港までも20分で着く。 塘沽区内にある天津新港は、中国の華北、西北、東北など内陸にある省市と東アジアとを結ぶ海の窓口であり、重要な戦略的地位を占めている。現在、天津新港は、すでに170を超える国と地域の300以上の港と通航し、日本の神戸港とは友好港の関係を結んでいる。 天津新港はさらに280億元を投資して拡張工事を行い、2010年までに貨物の年間取扱量が標準コンテナに換算して1000万箱に達する世界一流の近代的物流センターになろうとしている。 塘沽にある天津経済技術開発区と天津塘沽海洋ハイテク開発区は、いずれも国家クラスの開発区である。天津経済技術開発区の入口には「開発区大有希望(開発区は大いに有望だ)」という金色の七文字が書かれた碑が建っている。これはケ小平中央軍事委主席が1986年8月、この開発区を視察した時に揮毫したものだ。 塘沽海洋ハイテク開発区は、中国唯一の海洋のハイテク関連の開発区である。マイクロエレクトロニクス、新素材、海洋生物医薬、海産品再加工、海洋設備製造などの産業の発展に重点を置いている。同時に、この開発区は中国唯一の、海洋ハイテク産業、海洋科学技術、海洋精密化学工業のモデル基地でもある。 米国のボーイング社が最初に中国に設立した合弁企業である「波海航空複合材料公司」はこの開発区にある。2010年までに、塘沽海洋ハイテク開発区は、15平方キロに拡張され、海洋産業の生産総額が百億元に達する海洋科学技術のニュータウンに発展するはずだ。
塘沽区政府は情報科学技術の発展を重視し、情報ハイウエーの建設を時代とともに発展させてきた。塘沽星訊プラットフォーム、塘沽経済情報ネット、塘沽1001便民サービス情報局など一連の情報化のプロジェクトがたちあげられた。「塘沽のデジタル化」という理念はすでに人々に浸透し、2003年の「中国都市情報化水準評価」の中で第4位となり、塘沽は情報化のレベルで中国の最前列に立っている。 塘沽を南北に貫く海濱観光回廊には、中国では初めての「四A級」の海濱観光レジャー区や大沽口の砲台遺跡、北塘民俗観光区などがあり、それぞれ特色のある観光スポットとなっている。これらの観光スポットは、にぎやかな解放路商店街の歩行者天国や広々とした濱海世紀広場、森林公園などの商業観光総合施設とタイアップして、多くの国内外の観光客を引き付けている。 深まる日本との交流 塘沽と日本との交流の歴史は、1914年に遡ることが出きる。当時、「実業救国」という大志を抱いた中国の青年、范旭東は、日本の東京帝国大学の化学科を卒業した。そして塘沽にやって来て、ここでとれる豊富で質の良い「長蘆塩」と、塘沽の優れた地理的環境に驚き、ここに中国初の製塩工場「久大精塩廠」を建設した。この工場は1920年代に、「紅三角」というブランドで、良質の工業用アルカリを生産するようになり、英国企業による工業用アルカリの世界的な独占を打破した。 日本と塘沽との文化や経済の交流も盛んになってきている。 1987年から塘沽と日本の高崎市は毎年、互いに少年サッカーチームを派遣しあっている。こうした友好交流は、双方の子どもたちの心に、友誼の種子を播いた。塘沽区の職工大学も千葉市、東京都などの学校と交流し、日本の25名の研修生の短期留学を受け入れた。また青森県八戸市との交流も深まっている。
経済協力の面では、千葉市との友好交流活動を通じ、双方の発展にとって多くのチャンスがもたらされた。土屋津以子さんは千葉市国際交流協会代表団や企業家代表団を率いて年に3回も塘沽を訪問した。塘沽区政府は同協会の鈴木徳夫会長に「塘沽区の栄誉区民」の称号を授与した。 塘沽にある外資系企業の中には、日本の企業も少なくない。例えば、中日合弁の「中塩(天津)海洋生物科学有限公司」や「天津天山国際貨運有限公司」などである。100%投資の日本の企業である「天津北春技研有限公司」は、2001年3月に設立されてから毎年の販売利潤が販売額の29・3%に達しているという。 天津市のシンボルを目指す 天津市政府と塘沽区政府の戦略的目標は、塘沽を対外開放の最前線として、またその窓口として位置付け、「近代化した港湾都市のシンボル区」「濱海新区の総合的サービス機能区」と「外向型経済と新興産業の密集区」にすることである。これはつまり、塘沽を天津市のシンボル区にしようというものだ。 投資環境が完備するにつれ、塘沽区はすでに天津市あるいは華北地区の最も投資価値のある地区の一つになった。28の国と地域からの投資者が、塘沽区で500を超える企業を起した。これは塘沽区の「天の時」と「地の利」が良かったからだけではない。区政府は投資者のために、一連の投資のソフト面でのよい環境を作り出す政策や措置を打ち出し、手続き面でも簡素化したことによってもたらされたのだ。 塘沽区政府の仕事の能率の高さについては、投資者の間で評価が高い。仕事の遅延や怠慢は許されない。塘沽人は、度量の大きさと寛容さ、温かさを持っているので、いっしょに合作したいという気持ちが湧いてくると、多くの外国人は言っている。 塘沽区政府の指導者は、いつも「信用第一」をモットーにし、みなが互いに利益を分かち合い、ともに経済を発展させ、庶民の福祉を図ることを願っている。 今年は中国の第10次五カ年計画の2年目に当たる。区政府は、区内の全体的な配置を調整し、区内を六つの経済機能区に分けた。それは・塘沽海洋ハイテク開発区・解放路商業中心区・津塘道路集散貿易区・新洋市場商業区・海濱観光レジャー区・農業ハイテクモデル区である。
この六つの経済機能区はもともとかなりの規模と基礎を持っているが、これからの2年間に、区政府はさらに30億元を投資して、各種のインフラを整備し、市街区の近代化を推し進め、塘沽を、交通が便利で環境が良い、生活が快適な港湾都市の市街区にしようとしている。 もちろん塘沽区も多くの困難に直面している。塘沽の産業構造の改善や所有制度の調整という任務は複雑で重く、塘沽の総合的優位性がまだ十分に発揮されていない。沿海都市の特色や、あるべき姿がまだはっきり現れていない。こういう状態であるからこそ、都市造りの経験豊かな日本の商工企業にとってはチャンスである。 中日両国の経済は、相互補完性が強い。中国の経済発展と需要の増大は、日本の企業に巨大な市場を提供している。
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