記録に残る唐代の茶の煎れ方
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唐代のお茶の飲み方は、いったいどんなものだったのでしょう。基本的には、茶を煮ることであり、これを{ほうちゃ}烹茶といい、煎茶ともいいます。 陸羽(733〜803)の『茶経』によれば、茶を煎れる時に、まず餅茶(お餅のように固められたお茶)を火で焼いて水分を取る。それから石臼で粉のように挽き、ふるいにかけてからお湯で煮る。湯の沸騰が始まったら、最初に魚の目と同じような小さい泡が水面にあがってくる。 「微かに音がある」――これを、「一沸」と言う。この時に塩を少々入れる。 泡が泉のように涌いてきた時を「二沸」と言う。この時に一杯のお湯をすくう。これは後に使うためである。 そして、竹の挟みで鍋の中心部を力強くかき混ぜながら、茶葉の粉を入れる。しばらく待つとお湯の中でお茶が沸騰する。これを「三沸」と言う。この時に、先の一杯のお湯を再び鍋に入れ戻す。これでお茶ができたことになる。
しかし、このまま続けて煮ると、「水老いて食する可らざる也」(沸かし過ぎると水が疲労して飲みにくくなる)と言っているので沸かしすぎてはいけない。 最後にお茶を茶碗に分ける。お湯と茶葉の量について、「水一升の場合に、粉の茶葉を少々入れる。濃い味が好む場合は、更にもう少し足す」「水一升で煮る場合に、五煎目まで、熱いうちに飲む」と記述している。また、お茶の味は三杯目までがおいしいが、四、五杯目がまあまあで、五杯目以後が「喉が渇いた時以外は飲まないほうがいい」とも言っています。 その他にも、「飲むお茶には、荒いお茶と、散茶、抹茶、餅のように固めた茶などがある」と書いてあるので、違う種類の茶葉があり、煎れ方も違うものがあったことが分かります。 一般の人々は、「茶葉を切り、水分を取って、乾燥させ、細かくしてから瓶や缶に保存する。飲む時は、熱いお湯を注ぐだけでよい」とあり、これをアン茶とよんでいました。 このように、茶葉を粉状に砕いてから瓶に入れ、そのまま湯を加える方法と、「葱、姜、棗、橘皮、茱萸、薄荷などを茶と煮込んで飲む方法がある。攪拌して滑らかにしたり、泡を取りながら煮たりする。これは、川や溝に捨てる水のようなものであるが、このような習慣は長く残った」というように、茶葉を初めから他の植物と一緒に煮込む方法もありました。 後者の方法を陸羽は「廃水」と呼んで嫌いました。『広雅』によると、三国時代から唐代までの百年間、{けいは}荊巴地区(現在の湖北省と重慶市)ではずっとこの方法で茶が煎れられていたといいます。これはちょうど「食料」としての茶葉と「飲料」としての茶葉の過渡型であるということが出来るのです。 陸羽は茶に葱、生姜等を入れるのを反対し、塩を少々入れた。だから、古代の茶は塩辛い味をしていたようです。しかし、茶葉に調味料を加えると本来の味を失うという理由から、宋代以後、塩を入れることもやめるようになります。 唐代のお茶の飲み方について、詩文の中に見られるものがあります。白居易(白楽天772〜846)は「李六郎中の新茶を寄すを謝す」の中で、以下のように記しています。 紅紙一封書後信、 紅紙一封 書後の信、 【通釈】 いただいたお茶は、沸いた湯に水一酌を加えて、魚眼湯を煎じ、粉末にした茶をさじでいれ、粉をかき混ぜてお茶を点てました。 この詩を読むと、新茶の時期とアン茶の様子が分かります。陸羽は、白居易より前の人ですから、この時点で煎れ方が変化し始めていることが分かります。また、その後の有名な詩人皮日休(841〜883)は「茶を煮る」で、 香泉一合乳、 香泉 一合の乳、 【通釈】 その音は、松林の雨のよう聞こえ、茶の上に湧いた泡が出すぎることに注意する。 と詠い、お茶の素晴らしさを表現しています。この詩では、茶を煮ており、唐代を通じてお茶の飲み方が様々であったことを感じさせます。 |
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