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辛くも楽しい深田の思い出
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山坑田のあぜは木杭と横板で補強されている |
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文・写真 丘桓興
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少年時代のこと、母に連れられて「弓背坑」と呼ばれる湖洋田(深田)へ行った。田に埋め込んだ松を足場として立ち、田植えをした辛さが今も忘れられない。
湖洋田は、山坑田(山間の水田)の一種である。湧き水の源にあり、年中、水浸しになっていた。水の冷たい泥湿地であり、底が深く、湖や洋を思わせる。そのため「湖洋田」と名づけられていた。深さは1メートルほどだが、水源あたりの田などは深さが2メートルに達するものもあった。安全のため、深田の主はその上にわらを敷いたり、葉の大きなサトイモの一種を植えたりして、注意をうながしていた。また、深田や水源の大きさによって、田の中に十字形、または三角形に松の木を埋め込んだ。松の木は耐水性があり、「水浸、千年の松」という言葉もある。水に浸しても腐らないという意味で、埋め込んだ木の上に立ち、耕作するのが安全だった。
湖洋田は、そのほとんどが山あいの谷間に広がる棚田であった。先祖が開拓したときは、傾斜した丘を平らにしてから一つずつ棚田を作った。ことわざに「一寸の土地のために千回担ぐ」とある通り、その苦労は容易に想像できるだろう。深田は泥湿地であったため、石で築いた田のあぜが崩落するおそれがあった。そのため、あぜの下側に木杭を打ち込み、横板で押さえて頑丈なあぜを築いたのだ。山坑田や湖洋田は形も大きさも異なるが、四角い大きな田はめずらしかった。わが家は、弓背坑に十三枚の田を持っていた。大きな田は100平方メートル、小さな田は食卓ぐらいの大きさで、さらに小さな田もあると聞いた。
春は耕作の季節である。母は私と上の妹を連れて、弓背坑へ野良仕事に出かけた。まずあぜ草を刈ってから、山すそと用水路のあたりの低木を刈った。日照時間を増やすためであり、ネズミや害虫の居場所をなくして、被害を抑えるためでもあった。また、あぜの木杭や横板が朽ちていたら、新たに交換しなければならなかった。そうしなければ、漏水したり、田の養分が流失したりするばかりか、あぜが崩れる危険があった。つづいて田を耕した。小さい田ならあぜに立ち、鍬などで田おこしをした。そうすることで、雑草や稲株が泥と混ざって肥料となった。深くて大きい田であれば松の足場に立ちながら、田を耕した。
5月の半ばが田植えの季節だ。夜半に起きて、まず苗田へと向かった。たいまつを燃やし、苗を抜きとり、きれいに洗って束ねたら、弓背坑へと運ぶのである。田植えの前には、鍬などで田を均等に整えた。湖洋田の田植えの場合は、とくに注意が必要だった。重要なのは、松の足場にしっかりと立ち、田植えを始めることである。また、手を伸ばしすぎずに、体のバランスを保つこと。万が一、滑り落ちてもあわてないことである(もがけばもがくほど、深田にはまり込んでしまうからだ)。家族でも勝手に深田に入ってはいけなかった。すかさず丸太を探して田に浮かべ、浮力によって落ちた人を助けるのである。
中耕の季節になると、雑草をとって、肥料をまいた。長さ60センチ、幅30センチの木製舟形の盆に、草を焼いた灰をのせ、それを押しつつ灰の肥料を稲の根元に押しこんでいった。その作業を「塞禾」という。中国の南方は雨が多く、土壌の多くは酸性である。湖洋田はとりわけ強い酸性のため、水田に石灰をまいて、その土壌を中和させた。土の質を改善したのだ。石灰は病害虫を駆除することもできたので、まさに一挙両得だった。
村人たちは石灰をまき、田をおこし、除草し、病害虫を駆除し、魚をとることを一体化させた。それこそ農業の楽しさがあった。
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ふるさとの晩稲の稲刈りと脱穀のようす |
昼前になると、母は私に昼食を作らせた。田のそばで、三つの石を「かまど」にして鍋を置き、その中に米と湧き水、さばいた小魚を入れていっしょに煮込む。しばらくすると、香ばしい小魚入りの炊きこみご飯ができあがる。折った木の枝を箸にして食べるのである。野趣にあふれた、わが家の飯盒炊さんだった。
晩秋は、また忙しい季節であった。山坑田は家から離れた場所にあり、稲刈りから脱穀まで一日で終えなければならないので、家族総出の仕事であった。早朝に、稲穂を入れるカゴやザル、脱穀用の木板と竹で編んだゴザ(今ではそれぞれ脱穀機とビニールシートに取って代わった)などを持って、山へ向かった。
晩秋は雨が少なく、その上、水田は水を抜いていたのですっかり干からびていた。そこで乾いた田の稲を先に刈り、脱穀用の木板や竹で編んだゴザなどをそこに並べて、臨時の脱穀場とした。しかし、湧き水のある湖洋田では、やはり松の足場に立って稲刈りをした。刈りとった稲をカゴに入れると、取り扱いやすかった。稲穂が泥に着くこともなく、持ち運びにも便利なのだ。しかし、人力で束ねた稲を脱穀するのは大変で、力のある男性しかできない作業であった。脱穀された穀粒は、家に運んで日干しをしてから、唐箕を使い、しいな(実のないもみ)やわらくずを取りさった。その後、もみ米は木造倉庫で保存された。
弓背坑には、わが家の田が13枚あったが、年に合わせて60キロほどしか取れなかった。しかも、しいなが多く、収穫率が低く、味もあまりよくはなかった。しかし、客家の住む地域は山が多く、田が少ない。米がたいへん貴重なので、収穫率が低くても、耕作を続けていくほかなかった。
ところが今回の帰省では、山坑田の多くが変わっていた。1970年代に、技術者の指導によって村人たちが田を改造したためである。山すそに深い排水溝を掘り、田の中央にも十字型の排水溝を整えて、田の積水を排出したのだ。また、田の底に石や砂、草などを埋めてつき固め、土壌の通気性を高めたのである。こうした改造を通して、湖洋田はふつうの稲田のようになった。二期作が可能になり、生産量も上がって、作業が安全にできるようになったのだ。
1960年代以前、日本の富山県、茨城県の一部の村には「湶田」という深田があったようだ。胸まで泥水につかりながら田植えをする地元の女性や、小舟に乗って苗を運ぶお年寄り、長い板を足場として稲刈りをする人の写真を目にして、深い尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
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【客家】(はっか)。4世紀初め(西晋末期)と9世紀末(唐代末期)、13世紀初め(南宋末期)のころ、黄河流域から南方へ移り住んだ漢民族の一派。共通の客家語を話し、独特の客家文化と生活習慣をもつ。現在およそ6000万人の客家人がいるといわれ、広東、福建、江西、広西、湖南、四川、台湾などの省・自治区に分布している。 |
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