時代を超えた味わい
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唐代のお茶といえば、4月号に書いた陸羽の茶というのが、茶史を考える上で忘れることは出来ません。今回は今一度、陸羽の後半生のことについて触れてみたいと思います。 ここで『茶経』は完成することになるのですが、ここで、陸羽は肝胆相照らす友人に出会います。その人は、現在の湖州市妙西鎮にある杼山の妙喜寺に住していた、13歳年上の皎然という僧侶です。このことは、4月号で少し書きました。陸羽と皎然のつきあいは尋常なものではありません。
特に皎然は何度も陸羽を訪ね茶談義をしたようです。例えば、『全唐詩』の中の「陸鴻漸を尋ねて遇わず」という詩の中で、 扣門無犬吠、 門を扣いて 犬の吠えるなく、 と詠っています。意味は「陸羽の家を尋ねて門を叩いてみたが、犬が鳴くこともない、どうも留守のようだ。仕方がないので帰ろう思って、隣の家の人に聞いてみると、(西家とは唐詩の場合老人の住む家の意味もあるので、年寄りに聞いてみるの意味も含む)彼はいう、陸羽さんは、山に出かけると、帰るときはいつも夕暮れだよ」となります。 このような詩は、高潔な人物や非常に親しい人物を尋ねるときよく作られました。皎然はよほど陸羽に会いたかったのでしょう。 しかし、陸羽は、自伝の中で「関を閉めて書を読み、非類を雑えず。名僧高士と談り むこと終日」と言っていますので、名僧皎然や優れた人物の来訪の時には、心ゆくまで茶を飲み茶談義に時を忘れたこともあったのでしょう。ですから前述の詩のように、会うことが出来なかった皎然の落胆の思いが察せられると思います。 大暦7年(772)書家として有名な顔真卿が湖州の長官として赴任します。この時、皎然のいた杼山の妙喜寺に三癸亭を建てました。 この三癸亭は陸羽のために建てたことが顔真卿の詩から分かります。この時すでに、陸羽が優れた学者として、また茶人として遇されていたことが分かるのですが、顔真卿が長安に戻ると陸羽のことは分からなくなります。しかし、20年以上の余生があったことから、陸羽の晩年は、茶人としての心豊かな生活があったように思えます。 陸羽が湖州在住の時に係わった名茶として顧渚紫笋を忘れることは出来ません。陸羽は唐の大暦年間、顧渚山に茶園を設置し、自ら茶葉を摘んで作り味わったと伝えられています。それによって顧渚山の茶葉は、唐代の半ばから広く世間に知られるようになります。また陸羽は『顧渚山記』(現存せず)を著わし、顧渚山の茶について書きました。
唐代の皇室は献上茶の製造を監督するために顧渚山に貢茶院を設立しました。『呉興志』の記述によれば、唐の大暦5年(770)には、顧渚源に藁屋30間を設け、献上茶の製造の為に金沙泉を引いたとあります。顧渚紫笋は唐の広徳年間(763〜764)から明の洪武8年(1375)まで600年余りにわたって献上茶とされ、全国献上茶の中で最も長い期間、献上茶となったことでも知られる名茶です。 陸羽以来、製造方法も餅茶、竜団茶(お餅または方形に固められたお茶)から散茶(現在の中国茶の製法でできたお茶)、蒸青(蒸して製茶する緑茶)から炒青(炒めて製茶する緑茶)まで様々な製造発展の歴史を経てきたのです。この度、私は現地を訪ね、顧渚紫笋を楽しむことが出来ました。 顧渚紫笋は浙江省湖州市長興県水口郷顧渚山一帯で生産されています。新鮮な茶の芽はやや紫色で、柔らかい茶葉が筍の皮に似ていることから名付けられたようです。 長興県は浙江省の西北、太湖の畔に位置し、南、北、西は山に囲まれ、東は太湖に臨んでいます。県内の大小の峰は300余り、亜熱帯季節風地域で、年間平均気温は摂氏15、6度、年間降雨量は1600ミリ程、年間無霜期は235日間に達し、山間部は朝、晩霧が発生する大変素晴らしい環境で栽培されています。茶樹の大部分は山間に栽培され、野生のものは、竹林の中にあります。 毎年の清明節前から穀雨(谷雨)の間に一芯一葉または一芯二葉を摘み取り製茶されます。最高級品の紫笋茶葉は筍のよう包み合い、上等の茶芽は柔らかくてまっずくに長く伸び、蘭の花に似ています。その素晴らしさは「青翠芳馨、嗅げば人を酔わし、啜れば心を賞す」(深緑色で芳しい香りがあり、匂いに人は酔い、飲んでは心が和む)と称えられているのです。 製法の違いこそあれ、唐代陸羽が愛した顧渚紫笋が、今日時空を越えて味わうことが出来るのは至高の幸せです。
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