特集 江西省・景徳鎮 変容する千年の焼き物の里 (その2)
新世紀に挑む現代の名工たち
  
 
青花鹿鶴図鳳尾尊(清 康煕年間) 炉鈞釉灯籠瓶(清 乾隆年間) 青花纒枝芭蕉紋罐(清 雍正年間) 青花製磁図盤(民国) 青花布袋羅漢彫塑(民国) 五彩花園?馬図蓮子瓶(民国)

 景徳鎮にはこんな言伝えがある。

 清の康煕年間(1662〜1722年)のこと、景徳鎮は鼠が大発生し、人々に危害を与えた。このとき、馮上徳という陶芸の名工が、一生懸命、数個の磁器の猫を作った。それは本物そっくりで、鼠はそれを見ると驚いて、穴の中に隠れた。

「陶瓷世家」の称号を持つ王安維さん

 そこで、街のいたるところにこの猫の複製品を置いたところ、鼠は怖がって、餌を食べに穴からでることができず、次々に餓死してしまった。こうして鼠の大災害は終息したという。

 この馮上徳のような名工が景徳鎮にはたくさんいる。中国陶芸界には国家クラスの工芸美術の大家が二十数人いるが、そのうち12人がこの景徳鎮に住んでいる。また景徳鎮では、一家三代、陶芸に従事し、特に功績のあった家に対し、地元の政府が「陶瓷世家」という称号を授与している。

 現在、景徳鎮陶瓷学院の美術学部副主任の王安維さんもこうした家の出身である。彼は4代目、歳は不惑。

 王さんによると、最初に陶芸を始めたのは、王さんの曽祖父である。清の光緒年間(1875〜1908年)に、曽祖父は浙江から景徳鎮に御窯の「督陶官」として派遣され、一家を挙げて景徳鎮に移り住んだ。

保存されている民間の陶磁器を焼く窯

 祖父は、幼いころから絵画が好きだった。彼は上海美術専門学校に行かされ、景徳鎮に帰ってきてから陶磁器の絵付けを専攻した。祖父は読書を愛し、生き字引と言われるほどで、分からない字句は、彼のところに来れば解決したという。

 王さんの父は王隆夫さんといい、中国の有名な陶芸美術の大家である。王隆夫さんはとくに人物画と花鳥画に長じ、西洋風のデザインを最初に磁器に取り入れた。また、「全粉彩」という色絵付けの技術を開発し、陶磁器の絵付け技術の革新をもたらした。

 こうした家庭の中で育った王さんは、小さいころから教育環境に恵まれていた。彼や姉妹たちはみな、父の作品を模写して大きくなった。後に、彼らはみな、陶磁器の絵付けという仕事に従事し、それぞれ立派な業績をあげた。いま、一家が集まると、互いに作品を品評しあい、切磋琢磨するのが楽しみの一つになっている。

伝統の圧力が名品を生む

手で轆轤を回す伝統的な工法がいまも生きている。これは手にもった棒で下の石盤を回し、その慣性を利用する。この昔ながらの工法は、もうあまり見られなくなった

 王さんは陶磁器の絵付けの面で、研究を深め、新たな境地を拓いた。彼は人物画に優れ、父の作品に比べ彼の描く人物は洒脱で、堂々としており、趣がある。

 「景徳鎮の焼き物の精髄は、絵にある。絵の革新と創造は、景徳鎮が長く陶磁器の都となってきた重要な理由だ。『陶瓷世家』の称号を維持しようとするなら、不断の革新と創造をしていかなければならない。もし良い作品がなければ、人々に忘れられてしまう。圧力は非常に大きい」と王さんは言っている。

 王さんは、景徳鎮に深く愛着を抱いている。彼は中国陶磁器の絵付けの先生として、よく外国で講義をするが、外国の企業や学校の評価は高い。2002年には彼はシンガポール国立大学で陶芸絵画の講義をしたが、同大学の学長が彼に、「ここに留まってほしい」と多くの優遇条件を示した。

 しかし王さんは、婉曲にこの申し出を断った。「私たちの世代の陶芸家にとっては、景徳鎮で暮らすのが幸せなのだ。景徳鎮はいわば世界の陶磁器の都であり、深くて厚い文化の蓄積がある。陶芸家にとってここ ノ住んでいることが創作の源泉になる」という理由からだ。

女性の名工も出現

磁瓶の絵付け

 陶芸は古来、男だけのものだった。景徳鎮でも陶芸の技術は、女性に伝授されることはなかった。しかし。時代とともに、そうした観念はだんだんと薄れ、女性の名工が現れ始めた。

 張春栄さんも、代々彫塑に従事する一家に生まれた。兄弟姉妹は多く、彼女は一番下だった。彼女の父は、中国の陶芸彫塑の大御所といわれる徐順源に師事した。張家の陶芸技術は、透かし彫りなどで有名であった。

 父は早く世を去り、母は彼女に生きてゆく手段を身に付けさせようと、兄といっしょに陶芸技術を学ばせた。頭が良く、刻苦奮闘したおかげで、彼女は非常に早く、家に伝わる陶芸の技法を習得した。

景徳鎮で作られたこの磁器は、72の工程を経て、一カ月がかりで完成した

 1981年、張さんは景徳鎮彫塑瓷廠に入って、労働者となった。数年後、彼女は努力の結果、工場内で腕利きの技術者となった。

 彼女は、頭にネッカチーフを被った中国の女の子の像を造ったことがある。この作品は、よく見なければ、本当の絹のネッカチーフが被せられていると思うだろう。しかし実は、そのネッカチーフはすべて手で彫塑され、焼き上げられたもので、その質感は、絹のようであった。

 この工場は1956年に開設され、労働者は1200人以上いた。中国でもアジア全体でも最大の陶磁器彫塑工場だった。また、国家クラスの工芸美術の大家が一人、省クラスの人が二人おり、創作の能力がある人は50人以上いた。

 しかし改革・開放政策の深まりとともに、従来の統一的な生産設計の国営モデルに替って、名工が筆頭になって職工が自由に作った工作室を設立し、工場は彼らに工房と必要な設備を提供する制度ができた。

 そこで張さんも、工場内の二間の部屋を請負い、自分で製品の設計と製作を始めた。「独立して請負うようになってから、精神的な圧力は大きくなったけれど、良い値で売れるためには、新しい優れた製品を次々に作り出さなければなりませんでした」と彼女は言っている。

景徳鎮のある「小麻雀」というレストランの内装は、陶磁器が多く使われて景徳鎮の特色を出している

 張さんは独立してから、大いに能力を伸ばした。彼女の製作した多くの作品は、香港やシンガポールなどのコレクターに買い求められている。彼女の作品『単鳳朝陽』は、国家大賞を獲得した。

 工場側にとっても利益は大きかった。工場長の許紹文さんはこう言っている。

 「企業改革は、多くのベテラン陶芸家たちの創作意欲を高めた。以前、工場では、陶磁器の記念品を一つ作るのに、長い時間が経っても良いデザイン案が出てこなかった Bしかし、現在は違う。注文があれば、多くの素晴らしいデザインが短時間の内に目の前に並べられるのです」


 

     
     景徳鎮の四大名磁器

青花
これは特殊な鉱石を絵付けの顔料とする下絵付け磁器の一種。その青色の紋様が古典的な趣を顕す。


玲瓏
「米通」ともいわれる。宋代の磁器の透かし彫り技術を基礎に発展させたもので、磁器の中に透明な小さな孔が多数あり、光に透かして見るといっそう素晴らしく、人に精緻な美感を与える。


粉彩
清代に発達した低温彩磁工芸の一種。明末清初の五彩の技法を基礎に、琺瑯彩の制作技術を吸収して創造に成功した。


高温顔色釉
磁器を焼く過程で、釉薬が変化し生じた珍しい窯変を指す。