【放談ざっくばらん】

罵り言葉を考える

                      吉林大学外国語学院日本語学部教授劉樹仁


 

 かつて、日本の大学で四年間教壇に立ったが、それでも冷静に日本を分析し、理解することは難しい。主観に基づいた浅はかな認識を述べることになるが、お許しいただきたい。

私も部品になった

 1980年代半ば、日本に着いて最初に感じたのは、日本全体がまるで、調和し効率化された機械のように、すべてが秩序だっているということだった。誰もが部品のようであり、明確に分業され、機械の動きにしたがい、ルールに従って動く。私が招聘された千葉工業大学は、まさにこの機械の一部で、私も自然とその部品の一つとなった。

 教壇に立つ前、外国人として、「日本での仕事に順応できるか」「仕事を評価してもらえるか」と心配が絶えなかった。しかし、不安にさいなまれながら初めて校門をくぐった時、当直の門番は、礼儀正しい敬礼をして迎えてくれた。教師に敬礼するのは、同校の門番の仕事の一つとのことだが、その瞬間、私の不安は霧散し、自信がみなぎってきたのを覚えている。

 ただ、なぜ私が教師だとわかったのかは謎だった。後で知ったところによると、新任教師の写真が、事前に門番に届けられるそうだ。日本人の丁寧な仕事とはこういうものか、と実感したものである。

 「日本全体がまるで調和し効率化された機械のようだ」という言い方に、日本で学んだり仕事をした経験がある中国人は、大方賛同する。

 機械はどのように形作られ、どんな動力で動いているのだろうか。

 法律の強制があるわけではない。どんな法律も、人の主観的意思で制定され、その制約は決して不変のものではない。同様に、経済的な要素が推進力になっているのでもないはずだ。

 実際はまったく逆であり、社会全体が、調和し効率的に経済を動かせてこそ、発展のチャンスをつかむことができる。そのため私は、「日本という機械」は、日本独特の文化的影響の下で作りあげられ、文化の力で動いていると考える。だからこそ、日本文化の理解を軽視することはできない。

独特の罵り言葉

奈良県の友人と

 日本滞在当時、私は毎日、千葉県の津田沼駅を利用していた。ある日、プラットホームで電車を待っていて、こんなことがあった。

 一人の若者が、自信過剰か、あるいは遊びたい気持ちを抑えきれずに、電車を待つ人ごみの中でスケートボードをはじめ、私の後ろに並んで本を読んでいたサラリーマンらしき中年男性にぶつかってしまった。彼はひっくり返り、ちょっとした混乱が起きた。男性は起き上がると、大きな声で叱責し、若者は気まずさそうに深々と頭を下げ、自分の非を詫びた。数分後、次の電車が来る頃には、何もなかったような秩序が戻っていた。

 それからの数日間、私はホームに立つたびに、その出来事を思い出した。何度も思い起こすうちに、ふと、日本語には日本独特の文化的特徴があることに思い当たった。

 中年男性が若者を叱責した時、何度も使ったのは、「バカ野郎」「ふざけるな」といった言葉だった。日本語を習いはじめたばかりの頃、好奇心から、「バカ」「この野郎」「あほう」などの罵り言葉はすぐに覚えた。当時は、それらの言葉と日本文化を関連づけて考えたとはなかったが、もし、あのような出来事に英語圏で出くわしたならば、中年男性はおそらく、「性」関連の罵り言葉を吐いただろう。若者も、素直に謝らなかったに違いない。これは文化の差で、異なる民族の言葉が、異なる民族の文化を反映している証拠である。

 それ以降、私は意識して、日本の本や友達から、使用頻度の高い日本語の罵り言葉を集めてみた。その結果わかったのは、英語などと異なり、罵り言葉自体が少ないことだった。しかも、「性」関連の言葉はあまりなく、相手の家族や年長者をけなす言葉、相手を動物に例える言葉も少なかった。

 「性」関連の罵り言葉が少ない事実は、「性」が日本ではけなしの対象になりにくいことを意味するのだろう。また、相手の家族や年長者をけなさない事実は、日本の民族文化が、「相手個人」だけを批判する言葉を育んだと、説明できるのではないだろうか。

 日本語で動物名で人を罵ることが少ないのは、それはいわば本能的な表現であり、人が守るべき社会秩序とは関係がないからだ。日本語の罵り言葉の多くは、けなしたり侮辱するのが目的ではなく、「社会秩序の中の常識が欠如している行為をたしなめること」にあるように思う。

無秩序が排斥を生む

 日本文化では、秩序を守れるかどうかが、社会の一員を評価する重要な指標である。最も嫌われるのは、一部の人間によって秩序が乱され、無秩序が生まれることだと見て取れる。

 イラクでの人質事件のあと、帰国した当事者に批判が集中したが、秩序を崇拝する日本で、上がるべきして上がった声だったのだと思う。

 日本語を取り巻く別の現象も、前述のような日本文化の特徴を証明できる。それは人称代名詞の種類の多さと用法の複雑さである。

 日本語の一人称と二人称はそれぞれ、十種類近くある。年長者と年少者の間での呼称、友人同士の呼称、上司と部下の間での呼称など。尊敬や謙譲を表す人称代名詞も、私のような日本語以外の言葉を母国語とする人間には、すべてがすべて必要には思えない。しかし、それが存在しているのは事実で、秩序を重んじる日本文化に欠かせないものである。一部の人称代名詞の使用頻度は低いながらも、その重要性を否定できない。「私、僕、俺」や「あなた、君」などの意味は、社会全体の秩序の必要に応じて、日本という機械に順応するよう、絶えず変化し、流動する。日本民族の文化では、「私」や「あなた」はすでに個性を失い、ただ単に社会全体に属しているともいえそうだ。

 日本についてほとんど知らない中国人に、私のこのような感覚を話すと、誰もが驚きを隠さず、興味を持ってくれる。とはいえ、日本語に対する二つの印象的な現象だけでは、とても日本文化の全貌は紹介できない。おそらく、このような主観が災いしているからだろう。私は中国に戻ってからも、秩序を破壊する「バカな」行為をしないよう自分に言い聞かせると同時に、中国人的な「私」を呼び戻そうとしている。