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愛に支えられた中学受験
 
 
2003年10月に帰省し、母親(前列右から2番目)や兄弟姉妹、親戚らと撮った記念写真
文・写真 丘桓興

 1953年6月、小学校の卒業式で、私たち同級生四十数人は講堂(元の保慶寺の仏堂)におごそかに立ち、李仕俊校長の激励のあいさつを聞いていた。「みなさん、これからはよく復習をして、中学校に進学するよう励んでください」。(当時は、9年制義務教育がまだ普及していなかったからだが)、つづいて李校長から卒業証書が手渡され、卒業式は幕を閉じた。 その後、まもなくして中学入試を迎えた。藍坊郷の生徒はもともと、県庁所在地にある「蕉嶺中学」に出願していたが、前年度に10クラスの生徒を募集した蕉嶺中学は、その年さらに多くの受験生が見込まれており、受け入れられないほどだった。そのため県政府は、高思、藍坊、南寨、北寨の四つの郷の受験生が、新設された「高思僑興中学」(略称・僑中)に願書を出すよう決めていた。

 藍坊から僑中までは8キロほどあり、山を越えなければならなかった。うち5キロは、まったく人影のない荒れはてた山道である。受験前日の午後3時、私は同級生でいとこの丘梅興、同級生の陳運華、陳善華とともに出発した。

 ところが、しばらくすると私の母が「家に帰りなさい!」と叫びながら追いかけてきた。そのあわただしさに、私たちは何事かと驚いた。母に聞いても、ただ「家に帰ったらわかるから」と言うだけである。その後なんども聞くうちに、問い詰められた母はようやく、「家に帰ってニワトリのスープを飲むのよ」と言った。私は怒り出した。「いや、帰らない!」。母は再びいさめた。「あなたは体が弱いのよ。ニワトリのスープは体にいいから、それを飲んだら元気に受験できるのよ」。私はまだ納得できず、「家に帰れば、友だちに追いつかなくなる。一人で行くことはできないよ」と不満をぶつけた。「みんな待っていてくれるわよ」となぐさめる母。「もう、こんな時間だ。待っていてくれるもんか。ボクは僑中に行ったこともないし、道も知らない。どうやって行ったらいいの!」。言うことを聞かない私に、母も怒りだした。「さあ、早く帰りなさい。友達が行ってしまったら、私が送ってあげるから」

 母の厳しい命令に、仕方なく家に帰った。当時の私は幼くて、母の愛に気付かなかったばかりか、不満がつのり泣きながら家に帰ったのである。家に着くと、母は上の妹に湯を沸かすよう命じた。そして米粒をまいて、ニワトリをおびき寄せた。小さなメンドリを一羽つかむと、すかさず絞めて肉を切り分け、鍋に入れた。手早い母のおかげで、十分後にはおいしそうなニワトリのスープができあがった。母はまだ泣いている私をなだめながら、スープを飲ませた。それから「さあ、行きましょう。僑中まで送ってあげるから」と微笑んだ。村を出て山に登ると、三人の友だちがそこで座って待っていた。母は安心して家に帰っていった。

 私たちは、夕方までには僑中に着いた。海外にいる高思郷出身の華僑の寄付で建てられた中学校だが、荒れはてた墓の坂上にあった。村も店もないようなさびれたところである。学校がそんな場所にあると知り、私は少し不安になった。幸い、李校長が隣村の生徒たちを連れてくるのが目に入り、気持ちもようやく落ちついた。

 教室の臨時ベッドで一夜を明かすと、李校長に連れられて、朝食に行った。学校の東側、松林の下にあるバスケット場には、赤土の地面に間をおいて、二皿の野菜炒めといくつもの茶碗や箸が置かれていた。またバスケット場のそばには、ご飯を盛った竹ざると野菜スープを入れた二つの木の桶があった。それが私たちの「食堂」であり、朝食だった。八人一組でそれぞれご飯をよそい、二皿の野菜炒めを囲んで、地べたに座って食べ始めたのである。

恩師の故・李仕俊校長(右から3番目)とその夫人、子どもたちとの記念写真(2001年旧正月)

 朝食が終わると、李校長が私のほうにやってきた。左の手のひらにある二つの黄色い錠剤を指差して、「食事は済んだかな? では薬を飲む番だ」とニコニコしながら私に言った。薬を飲む覚えは一つもなかったので、「先生、私は何の病気もありませんよ。どうして薬を飲むのですか?」とあわてて応えた。すると校長は「あなたはマラリアにかかったことがあるでしょう。発作がおきて、悪寒や高熱が続いたでしょう。病気がないと言えますか? さあ、この薬を飲んでください!」。薬と聞いて怖くなり、「先生、それは苦いですよ。のむと吐きます」と私。「どんなに苦くても飲みなさい。悪寒や発熱があったら受験できますか?」。校長は、そう言いながら私の茶わんを手にとり、野菜スープを半分よそって「このスープをお湯の代わりにしましょう。薬を飲むのをこの目で見たら、安心しますから」と私に命じた。仕方なく、スープと錠剤を一気に飲んだ。すると校長は、微笑みながら歩いていった。

 薬が効いたせいか、午前の試験は順調に進んだ。一週間後、合格者が発表されたと耳にして、私たち4人は連れだって見に行った。校門西側の廊下に、合格者56人の名簿が貼り出されていた。林祝仙、利梅蘭、丘桓興……。ああ、前の3人はすべて藍坊小学校の卒業生である。陳善華、陳運華も名簿にあった。ところが、いとこの丘梅興の名前だけが見あたらず、どういうわけか「丘梅英」という名前があった。梅興は自分が試験に落ちたと思って、泣き出した。「藍坊郷には、ぜったい『丘梅英』という人はいないよ。高思郷の生徒の苗字はみな『湯』だ。南寨郷でも北寨郷でも、そんな名前は聞いたことがない。だから君の名前を書き間違えたんだよ。あせらないで。先生に聞いたらわかるから」と、私たちはあわてて彼をなぐさめた。数日後、学校側は「丘梅英」は「丘梅興」であったと訂正した。

 51年前の思い出が、昨日のことのようによみがえってくる。母がニワトリのスープを無理強いし、恩師が薬を与え、友だちが関心を払ってくれたことなど、いずれも本当の愛がこもったものだ。当時の私は幼くて理解できず、不満がつのり泣いていただけである。じつに愚かなことだった。月日が経つにつれて、母や先生、学友たちの愛と友情がなんと重いものであったか、それが次第にわかってきたのだ。古人によれば、「滴水之恩、当涌泉相報」(一滴の水の恩は、涌く泉にして報いる)という。先ごろ帰省し、母はまだまだ達者であった。学友たちとも親しく会った。しかし、李校長は2002年3月、病のために亡くなったという。ご冥福を祈るとともに、いつまでも懐かしく思い起こしていたのであった……。

 
  【客家】(はっか)。4世紀初め(西晋末期)と9世紀末(唐代末期)、13世紀初め(南宋末期)のころ、黄河流域から南方へ移り住んだ漢民族の一派。共通の客家語を話し、独特の客家文化と生活習慣をもつ。現在およそ6000万人の客家人がいるといわれ、広東、福建、江西、広西、湖南、四川、台湾などの省・自治区に分布している。