庶民生活に溶け込んだ喫茶
|
中国では「茶は唐代に興り、宋代に盛んになる」といわれ、宋代になると、茶葉の生産が急増し、お茶を飲む風習も盛んになっていきました。 まず上流社会でよくお茶を飲むようになります。貴族たちは頻繁に茶会を開き、皇帝も貴族との懇談のために献上されたお茶で朝廷の大臣等を招待するようになったのです。やがて、貴族と同じように一般の庶民もお茶を飲むようになったので、お茶は日常生活の必需品となっていったのです。 「一般家庭で、毎日不可欠なものは、柴、米、油、塩、醤油、酢、茶である」『夢梁録』「巻十六」、「中原の漢民族も辺境の遊牧民族も毎日飽きずに飲んでいる。金持ちも貧乏人も常に飲んでいる」梅尭臣『南有嘉茗賦』、「君子も悪人も問わず皆茶が好きで、金持ちも貧乏人も飲まないものはない」李覯著『K江記』と記述された資料があることから、お茶がすでに当時の生活に不可欠なものとなっていたことがわかると思います。 宋代は唐代より年平均気温が2〜3度低くなりました。特に寒気による茶樹への被害がひどく、茶葉の生産にも大きな影響を与えています。そのため浙江省湖州市、顧渚山の献上茶は清明節の前に都(河南省開封市)に輸送することが出来なくなり、献上茶の生産地は南の福建建安(福建省建・市)に移っていきます。建安の北苑に宮廷専用茶葉を生産する工場が建設されて、主に竜鳳茶(餅茶の一種で片茶とも呼ばれる。圧縮した茶の表面に竜と鳳凰の図案があったのでこう名付けられた)が生産されます。 宋代の熊蕃著『宣和北苑貢茶録』に、この竜鳳茶について「太平の年に、国が盛んになった初め頃、竜鳳茶が一般に模倣された。そこで、宮廷は使者を派遣して北苑で普通の茶と違う団茶を製造させることにした。北苑の竜鳳茶はだいたいこのごろから始まったのである」との記述があります。 このようにして建安は、全国の茶葉生産の中心地となったのです。年間の生産高は2、3万キロにものぼり、その内、竜鳳茶を2、3千枚(約150キロ)宮廷に献上していたといいます。 宋代の詩人は茶が好きで、茶を詠う人が多くいました。欧陽脩、梅尭臣、蘇軾(蘇東坡)、范仲淹、黄庭堅、陸游等も、多くの茶に関する作品を残しています。中でも欧陽脩の『双井茶』は有名なので紹介しましょう。 双井茶 (宋)欧陽脩 西江水清江石老、石上生茶如鳳爪。 西江の水清くして 江石老い、 【通釈】 西江の水は清らかで、川辺の石も古い、石の上に植えられたお茶は、鳳凰の爪のような姿をしている。 年の暮れも寒くなく、春の気配は早い、双井では、茅が芽を吹き多くの草に先んじている。 白毛の新芽は、袋は赤や緑のうすぎぬに入れる、十斤の茶を買う値で、一両も新芽を買う。 都長安のお金持ちや貴族達は、一杯飲んだだけでも皆、三日間も誇りにすべきである。 宝雲茶(杭州の宝雲庵のお茶)と日鑄茶(日注茶とも言う。浙江省の日鑄雪芽茶)は、非常によいお茶ですが、新しいお茶を好んで古いお茶を捨てるのは、世の常です。 どうして君子が常に徳があるといえるだろうか、本当によいものは、流行を追ったりはしないものです。 君は見たことがありますか、建渓(福建省の茶産地)の竜鳳団茶を、昔から変わらずに、味も香りも良いものです。 また、黄庭堅は『阮郎帰』という詞で、茶摘みから茶を飲んだ後の感覚までを詳しく描写しています。 摘山初製小竜団、色和香味全。 山に摘み初めて製す 小竜団、 【通釈】 詩人たちは、お茶の素晴らしさをこのように表現していました。 |
|