[特別寄稿] |
景徳鎮への限りなき憧れ
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中川美術館 館長 中川健造 |
弊誌六月号で「千年の焼き物の里――景徳鎮」を特集したが、この特集を読んで、景徳鎮の名品を多数、収蔵している広島県福山市の中川美術館の中川健造館長から、景徳鎮に関する深い想いを込めた一文が寄せられた。(編集部)
私が最初に景徳鎮の名前を聞いたのは中学生のころであった。私の家で大事にしていた湯飲み茶碗を台所で洗っている時、手が滑ってカチャと音がした。てっきり割れたと思った。一瞬、目を閉じた。 恐る恐る目を開けると、純白の湯飲み茶碗は、何事もなかったが如く、美しい光沢を放っていた。これが景徳鎮の蛍茶碗であると、母は説明した。薄くて硬く、気品のある景徳鎮の名前を、初めて強く意識した時を今でも鮮明に覚えている。 日本人は不思議なことに、宝石とか金銀には比較的、執着が薄い。しかし陶磁器には、異常なくらい関心を寄せ、その収集に目の色を変える。中川美術館の展覧会でも、陶磁器の作品展をおこなうと、多くの人々の興味を集め、入館者が多い。 陶磁器は平素、身近に置いて楽しむことができる。茶碗で抹茶を飲み、花瓶は花を生けて楽しむ。日本の戦国時代、織田信長も豊臣秀吉も、競って「唐物」の茶碗類を収集した。「唐物」とは中国の陶磁器のことだ。
私たちは一口に陶磁器と言うが、実は、陶器と磁器は異なるものである。陶器とは、陶土を轆轤で造形し、低い温度で焼成したもので、吸水性があり、温もりを感じされる。他方、磁器は、磁土を轆轤で薄く造形し、高い温度で焼いたもので、ガラス化した表面は吸水性がなく、輝いている。 陶器を見慣れた人々の目には、景徳鎮の磁器は新鮮に映ったに違いない。景徳鎮の磁器の表面は、透き通る白さと滑らかさがある。これに日本人もヨーロッパの人々も、憧れと羨望を抱いた。磁器は中国の偉大なる発明である。だから磁器を、英語では「チャイナ」と表現したのである。 今から約2000年前の漢代に、初めて窯が開かれて以来の歴史をもつ景徳鎮窯は、13世紀の元の時代に入ると、青花磁器とよばれる染付けが生まれ、五彩などの彩磁器が生み出された。
景徳鎮の名を不朽のものにしたのは、「影青」といわれ、またの名を青白磁とも称される「影青」の茶碗である。薄い青みを帯び、透き通るような肌に、刻印が薄く施されている。生地にかけた釉薬にも乱れはまったくない。景徳鎮の傑作は「影青の茶碗」である。 景徳鎮磁器は長い歳月を経ているが、その技術の発展は造形の方面にはほとんど進まず、色彩の面で大きな技術的な進展があった。粉彩磁器、赤絵、五彩磁器など、世界に冠たる美しい磁器が生まれた。 幼いころ、母から景徳鎮の名を聞いて以来、景徳鎮は私にとって神秘なところであった。景徳鎮は、揚子江の支流・昌江の南岸に位置している。宋、元、明、清のそれぞれの時代に名品を生み出した。 市の東北50キロにある高嶺村がある。この村こそ、景徳鎮磁器を生み出した磁土、カオリンを産する村だ。カオリン磁土から、薄い、透明感のある白い磁器が生み出される。ヨーロッパの富豪が憧れた景徳鎮の白色は、実はカオリン磁土のなせる技である。加えて、大量の薪が、周辺の山から得られるという幸運な条件が整っていた。
北宋時代には文化が栄え、青白磁と呼ばれる「影青」が誕生したが、その北宋も北方の遊牧民族の金やモンゴルに侵され、後退を余儀なくされる。黄河流域の各地にあった陶磁器の生産地も戦乱に巻き込まれた。 その結果、北部にあった著名な窯である汝窯、定窯、磁州窯などから、優れた技術者たちが景徳鎮に移住した。このことが景徳鎮の磁器発展に大いに寄与した。その総数は十万人とも言われる。新しい血が景徳鎮に流入された。 元の時代になると、有名な染付け(中国名・青花)が生まれた。白に青い色彩を乗せた、かつてない色彩の磁器が登場した。 これは、シルクロードを通じて運ばれてきたコバルト顔料が生んだ染付けである。染付け磁器は、イスラム的なモチーフが紋様として用いられた。そして景徳鎮で造られた磁器は、ヨーロッパまでも運ばれて、最高の磁器として揺ぎない地位を築いたのだった。
ちなみに、イギリスの有名な陶磁器メーカー、ウエッジ・ウッドのコーヒーカップなどを裏返してみると、「ボーン チャイナ」と書かれている。「ボーン」は骨であり、骨のような光沢は、景徳鎮が研究に研究を重ねて生み出したものである。 酸化銅顔料を使い、紅色を磁器に表現することに景徳鎮は成功した。これが、「釉裏紅」であった。元の時代は、景徳鎮磁器の発展に新しい夜明けとなったのである。 |