洪武帝が起こした茶の革命
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中国茶の歴史上最も大きな変化は、明代におこります。 宋代までの中国茶の歴史は、現代の中国茶とは一線を画したものであったということが出来ます。製茶法は大きく分けると、固めたお茶(団茶・餅茶)と固めていないお茶(散茶)とになります。 宋代までの主流は団茶・餅茶でした。従って、飲み方も煎じる方法だったのです。
明代に、これまでまれであった散茶に主流が移ります。つまり正式に団茶・餅茶の生産を中止したのが明の朱元璋(太祖、洪武帝)だからです。彼は洪武24年(1391)9月16日に、「団茶を作るのをやめて、散茶を作るようにすること」の詔書を下しました。その後、宮廷への献上茶は全て散茶に変えさせました。若い芽を蒸して発酵を止める蒸青にしたのです。 このように宮廷で散茶を飲むようになると、一般人も同じようにします。しかも、煎じて飲む方法を、現代と同じように湯を入れて飲むやり方に変えたのです。 周高起が『陽羨茗壺系』に、「急須でお茶を入れて、沸騰した新鮮な泉の水を加えてから飲む。お湯に茶をひたし、茶を飲む、この飲み方なら色、音、香、味を極めることができる」と書いています。 このことは茶の飲用史上の革命ということが出来ると思います。 明代には、飲み方以外に茶葉の生産や加工にも重要な発明が生まれました。緑茶の加工技術では、前述した蒸青が更に改良され、炒青という方法が現れます。 この製茶法は現代に至っても緑茶の製茶法の主流を占めることになるのです。炒青とは、摘み取った若葉を蒸さずに熱い鍋で炒って殺青(発酵を止める)する方法です。
張源著『茶録』(1595年)では、「鍋を非常に熱くなるまで暖めてから、茶葉を入れて、強火で急いで炒める。熟したら籠に入れて、数回軽く揉む。再び鍋に入れて、火を徐々に弱めて、完全に乾くまで待つ」、許次逎著『茶疏』(1597年)では、「生の茶葉を摘んだ時は、香りがないから、火力で香りを出す。……中略……鍋は必ず磨いておく。一鍋に200グラムの茶葉を入れる。まず弱火で柔らかくして、それから強火に変えて、木の枝を指のようにして急いで炒りながら鍋を回す。半熟程度でしばらく待つと香りが出る」、羅廩著『茶解』(1605年)では、「茶葉を炒る時に、一握りの量が適量である。鍋が熱くなってから、茶葉を入れて、音が出るぐらい急いで均一に炒る。それから籠に出して、薄く広げ、扇子で冷ます。少し揉んでから、再び炒る。弱火で翡翠色に変わるまで温めて、乾かす」と、炒青の技術について記述しています。 花茶もこの頃に大きな発展を遂げたものです。元来、花茶は宋代に、竜脳樹という木に咲く樟脳の香りがする花を茶葉に入れて飲むことから始まったといわれています。 蔡襄著『茶録』では、「茶葉には本来の香りがある。しかし、献納者は竜脳を少し混ぜて、茶葉の香りに足す」と書いています。その後、南宋時代に茉莉(ジャスミン)の花で加工した花茶が発売されました。 施岳は『歩月』「茉莉」に、「茉莉の産地は秦嶺の北である。……中略……この花は4月から木犀が咲く時期までに咲いて、香りがよいので古人がこの花を茶葉の中に入れて、香りを移した」と茉莉花茶について書いています。 明代になると、銭椿年著『茶譜』(1539年)に、「木犀、茉莉、薔薇、蘭、橘、梔、木香、梅等全て茶葉に加工出来る」とあるように、多種の花を使った花茶の加工が盛んになったのです。 烏竜茶は明代中期に福建崇安(福建省武夷山市)地区から生まれたと考えられています。 王草堂著『茶説』では、「武夷の茶を採取した後、風と日に当たるところで竹の籠に均一に並べる。これは晒青という。茶葉の青色が少し薄くなってから炒る。……中略……武夷茶は炒ってから、乾かすので、できあがった茶葉は青色と紅色になっている。青色は炒った色で、紅色は乾かした色である。茶葉を採取してからすぐ揺らすと、香りが引き出せる。遅かったり、早かったりしてはいけない。その後、茶に混ぜている古い葉や枝や蒂などを取り出して、きれいで統一した色にする」と書かれていて、烏竜茶の製茶工程であると言うことが出来ます。 烏竜茶の作り方はその後、福建省(ビン)南部、広東省潮州市・汕頭市及び台湾に伝わることになったと思われるのです。しかし、歴史上に烏竜茶の誕生が記録されるのは、福建の『安渓県志』によると、「安渓人は清の雍正3年(1725)、最初に烏竜茶の作り方を発明した。その後、この方法がビン北と台湾に伝わった」と書かれています。 烏竜茶の誕生伝説は他にもありますので、正確な誕生時期は諸説ありますが、1700年代の初め頃に福建に登場したことは間違いありません。現在でも福建省には『茶説』に記載された通りの伝統的な方法で烏竜茶を生産しているところがあります。 |
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