中国に巻き起こった大相撲旋風
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王浩=文 馮進=写真 |
1973年4月、日本の大相撲代表団が初めて中国公演を行い、中国の人たちに日本の伝統国技の魅力をタップリと味わってもらった。その31年後となる今年、北の湖敏満・日本相撲協会理事長を団長とする大相撲代表団がふたたび中国を訪問。北京と上海でそれぞれ公演し、中国社会に一大センセーションを巻き起こした。 「信じられない!」 「信じられない!」――。大相撲中国公演で、中国人の感想でもっとも多かったのがこの一言だ。多くの中国人にとって、相撲はきわめて曖昧模糊とした概念である。身長2メートル近く、体重150キロもの力士たちが突然目の前に現れると、誰もがたいそう驚いた。また、ホテルの服務員たちが驚嘆していたのは、力士たちの驚くべき食事の量だった。食事は力士一人が一回につき、ふつうの人の3人前をぺろりと平らげるのだった。
スケジュールに沿って、力士たちは北京場所の前に名所の故宮博物院と万里の長城、繁華街の王府井をそれぞれ分かれて訪問し、参観したり、ショッピングを楽しんだりした。そして、至るところで観光客たちの注目を集めたのである。故宮を参観していたある20代の中国女性は力士を見るなり息をのみ、目をまんまるくして、しばらく言葉にならない様子であった。「なんて大きいのかしら。まるで山のようだわ!」。また、王府井で力士が中国茶を買っているのを見た中学生たちは、競って力士たちの前で記念写真を撮っていた。ある力士は、記念撮影をしようと3、4歳の男の子を自分の膝の上に抱きかかえたが、男の子はその「巨人」にビックリして泣き出してしまった。母親が大急ぎで男の子を抱きかかえ、しばらくあやしていたほどである。
一日の北京観光中、力士たちはどこへいっても特殊な光景を作りだした。しかし、長時間歩くのは、彼らを疲弊させたようだった。天候はわりと涼しかったが、故宮を中ほどまで歩いただけで、びっしょりと汗をかき扇子をパタパタあおぐ力士や、そそくさと長いすに腰掛けて休みだす力士たちもいた。「ふだんはあまり歩かないんですよ。故宮はすばらしいけどスケールが大きくて、歩くには骨が折れますね」とある力士は語っていた。 精彩を放った取り組み
大相撲北京場所の初日は、6月5日午後2時から始まった。観客たちは会場となった首都体育館に早ばやとやってきて、力士が登場するときを待っていた。そのほとんどが学生や家族ぐるみで訪れていた人たちである。会場は公演が始まる一時間前には、1万人近くの観客でいっぱいとなった。北京体育大学運動学部のある大学生は、大相撲中国公演のニュースを耳にするなり入場チケットを買ったという。「じっさいに相撲が観戦できるなんて、とても得がたいチャンスですよ。入場料は高かったけど、価値あるものだと思います!」(入場料は100元〜1280元まで。1元は約13円)。
公演が始まると、北京出身で三段目の力士・仲の国(七月場所より幕下)の通訳により、力士たちが相撲の「基本動作」を披露した。土俵に上がったある力士が「股割り」を披露して、土俵に上半身をピタリとつける動作をしたとき、会場からはワーッという大歓声が起こった。これほど大きく、よく肥えた体のどこにそうした柔軟性があるのか、思いもよらなかったのだ。拍手も歓声もしばらくおさまることはなかった。 続いて、力士たちは中国と日本の小学生たちとのけいこを行った。小さな子どもが大きな力士に立ち向かう姿は、なんともいえず滑稽だった。土俵に上がったある子どもは渾身の力を込めて力士を押したが、力士はただ笑っているだけ。微動だにしなかった。それから力士が軽くたたくと、子どもはコロリと土俵上に転がった。また、束になった小学生たちが一斉に立ち向かうと、力士は土俵下へと一目散に逃げだした。こうした力士と子どもたちとの戯れも、観客たちの笑いを誘った。 一連のパフォーマンスが終わると、幕内力士によるトーナメント戦が始まった。力士たちは次々と自分の本領を発揮した。その迫力ある取り組みと燃えるような闘志は、観客の目の前に相撲の独特な「技」として披露された。ある力士は対戦する際、突然その身をかわして一方の力士を打ち負かした。150キロもの体を瞬時に翻したそのすばやさに、観客たちは目を丸くしてあっけにとられた。観客たちの拍手と歓声が、こうしたすぐれた取り組みの数々に沸き起こっていた。対戦前後に披露された「寄せ太鼓」や「弓取り式」などの伝統儀式も、濃厚な日本文化の雰囲気を楽しませてくれたのである。 初日の取り組みは、じつにドラマ性に富んでいた。横綱・朝青龍は決勝戦に進んだが、意外なことに大関・千代大海の「上手投げ」で黒星に。しかし、二日目の総合優勝決定戦では、人々の期待通りの見事な勝利で、優勝杯を手にしたのである。 公演が終わった後も、多くの観客が会場を離れようとはしなかった。体育館の出口には、バスに乗る力士を近くで見ようとする黒山の人だかりができていた。相撲をじっさいに見たのは初めてという中央民族大学の元教授・張慶宏さんは「相撲の取り組みに、日本文化の独特な魅力を感じました。こうした古い伝統競技が、今に至るまでよく保存されている。ほんとうに素晴らしいことですね」と語っていた。 二度の公演を知る人
今回の大相撲中国公演には、ある一人の特別な観客がいた。北京東方之星総合企画有限公司の総経理・李建華さんだ。31年前、最初の大相撲中国公演を「体験」した人である。今回、ふたたび客席で大相撲公演を見ることができ、その感慨もひとしおだったと彼は言う。 73年、李建華さんは日本語を専攻する大学二年生だった。その年の3月、学校側から急にある「任務」を言いわたされた。近く訪中する日本相撲代表団を接待し、その通訳にあたるというものである。この特別な「任務」に対し李さんはたいそう興奮し、緊張もした。当時は中日両国が国交正常化して一年にも満たないころであったが、相撲の中国公演は国交正常化後の良好な雰囲気のもとで行われる――。そうした重要な活動に参加できると知り、李さんの気持ちも自然と高ぶっていた。しかし両国間の交流は少ないころで、互いの理解もまだ十分とはいえなかった。李さん自身も相撲のことがよくわからなかった。それで非常に緊張したのだ。
李建華さんが今でもよく覚えているのは、空港に相撲代表団を迎えにいったときの光景だ。日本人はみな身長が低いという印象があったのだが、羽織袴で正装し、まげを結った巨大な力士たちがタラップから降りてくるのを見たとき、彼はあっけにとられたという。そして緊張しながらも、力士たちとの交流を始めたのである。学校で早くから覚えていたあいさつ用語を口にしたとき、力士たちは温かい拍手と歓声、気さくな言葉を返してくれて、李さんの心もだんだんとほぐれていった。 当時の北京の会場は、工人体育館だった。「当日は1万5000の座席がいっぱいとなりました。会場の中も外も、黒山の人で埋まっていました。みんながとても楽しみにして来ていた。拍手と歓声が全館に響きわたっていました。戦後27年の努力を経て、ようやく中日国交正常化を迎えたのです。長い間、抑圧された喜びが堰を切ったようにあふれだした。私もとても感動したことを覚えています」
一週間の交流で、李建華さんは多くの力士たちと親交を深めたという。力士たちが上海に向かう前日、李さんは彼らとの別れを惜しんだ。魁傑という力士(現・放駒親方)は歌がうまいことで知られ、日本ではレコードを出すほどの実力者だった。北京を離れるとき、李さんを特別に自分の部屋に呼んで、『かあさんの歌』を教えてくれた。「今でもこの歌を聞くたびに、31年前に力士たちといっしょに過ごした情景を思い出します。忘れがたい思い出です」と李さんは言う。 その後、李さんはさらに日本の相撲について関心を持つようになった。今回の観戦後は、いっそうその感慨を深めたようだ。「今回の中国公演は、前回とは異なるところがありました。横綱・朝青龍はモンゴル人ですし、外国人力士が多数参加していた。これは日本の相撲が絶えず豊かに発展している証拠で、すばらしいことだと思います。これからはより多くの人たちが相撲を好きになり、それに参加する人も増えるでしょう。そして、相撲も世界に向かって歩むことを期待しているのです」
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