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丘桓興 于文=文・写真 |
近代の青島は、ドイツの植民地だった。その後、日本にも占領された。街には植民地時代の文化の痕跡が今も残っている。 西区の旧城内には、二百以上の別荘群が街を取り巻くように建てられている。ドイツのゴチック、ギリシャ・ローマのコロネード(柱列)、イタリアのバロック、フランスのモダニズム……さまざまな様式の建物がある。
かつての「総督府」は、山の麓に巍々としてそびえ、壮麗である。宮殿のような「提督楼」は山の中腹にあり、気品に満ちている。ロシア風の「花石楼」は、古城のように海辺に屹立している。 街を彩る花や樹木にも特徴がある。八大関地区にある韶関路は、桃の木ばかりが植えられ、正陽関路にはサルスベリが、紫荊関路にはヒマラヤスギが植えられている。春になると、まず桃が艶やかな赤い花をつけ、レンギョウが山吹色に輝き、カイドウが火のような花を咲かせ、それが終わると桜の花が爛漫と咲き誇る。青島市民は 老人から子どもまで、一家をあげてこの花々を愛でるのだ。 八大関から香港路に沿って東に行くと、この二十年ほどで開発された新市街が眼前に広がる。ここは青島の政治、経済、金融、文化の中心であり、道路は広く、高層ビルが林立している。美しい環境の中に現れた近代的な大都市の景観は、古典的で典雅な西区とみごとな対照をなし、互いに引き立て合っている。 ビルの上から眺めると、緑の木々の中に赤い瓦の別荘が点在し、青い海に映え、趣きのある景観となっている。このため青島の人々は「赤い瓦、緑の木、紺碧の海、青い空」という言葉で、自分たちの故郷を表現するのが常だ。 青島の独特の自然と風光、歴史的・文化的な景観が、毎年、多くの観光客をここに引き寄せている。観光客が四十万人に達した年もあった。 2008年には、第29回オリンピックのヨット競技がここで開催される。青島は、北京オリンピックの唯一の分会場となる都市であり、世界の目はここに集まることになるだろう。
青島の街にあるレストランはどこでも、蔵出ししたばかりの青島ビールを味わうことができる。つまみをいくつか注文し、海や山の景色を愛でながら、口当たりの良いビールの味を楽しむことができる。 中国でも外国でも有名な青島ビールは、1903年に創業された。この年の8月15日、英独合資の「ゲルマンビール青島株式会社」という名のビール工場が、現在の登州路56号に設立された。 生産設備や原料はすべてドイツからもってきた。年間の生産能力はわずか二千トンだったが、品質は非常に優れ、1906年にはドイツ・ミュンヘンのビール祭りで金賞を獲得した。それ以後も生産技術が改善され、生産量は高まり、今日では年産30万トン以上に達している。 青島ビールの独特の味と香りは、まず青島の眤山から湧いている甘く清らかなミネラルウォーターのお陰だろう。これに加えて、輸入の大麦、優れた酵母やホップ、合理的な調合と厳格な技術・管理が、ここで醸造されたビールを世界三大ビールの一つにし、国内外の消費者に歓迎されるビールにしたのだ。 現在、すでに百年にもなるこの古い工場は、依然としてドイツ風の建築物として残っている。工場の中は蒸気がたち込め、従来からある伝統的な瓶詰めの生産ラインのほか、新たに缶ビールの生産ラインも建設された。
2003年8月には、青島ビールの百年の歴史を収めた博物館が正式に開館した。6000平方メートルの展示ホールの中には、当時の生産設備や工具などが陳列され、昔のビールの醸造法を実演してみせている。展示の中には1903年製のシーメンスの発電機がある。これはシーメンスが生産した発電機の中で現存する最古のもので、この博物館の「宝物」だ。 毎年8月になると、来客好きの青島の人々は、世界各地から友人を招待し、「青島ビール祭り」を開催する。祭りの当日は、着飾った人々が歌い踊り、山車の後について道路を練り歩く。ビールの芳しい香りが街全体に広がる。 祭りは夜になるとますます熱狂的になり、中国と世界の有名なスターが次々に登場して公演する。友人たちは相集い、ビールを痛飲し、人々の喜びは尽きるところがない。八月の青島の空には、海から吹いてくる風に乗って、ビールの香りと笑い声が漂い続ける……
青島は山東半島の南端にあり、韓国、日本と海をはさんで向かい合っている。山東省の喉元を扼する要地といえる。とくに青島港は、世界の130余の国や地域の450以上の港と貿易しており、年間の取扱量はすでに一億トンを超え、中国の一大物流集散センターの一つとなっている。
近年、多くの日系企業が次々に青島にやって来た。青島の優れた自然条件や社会環境もさることながら、全日空(ANA)の青島線の開通がこれに拍車をかけた。全日空の榎本正信・青島支店長によると、10年前、時の青島市長だった兪正声氏が、青島の更なる発展のため、全日空本社を訪問し、青島へのANAの航空路線開設を協議した。1994年の大阪線に引き続き、東京線が開通したことにより、日本から青島への所要時間は大いに短縮された。 統計によると、青島へ進出した日系企業は、現在、1042社で、業種は繊維、紡績、食品、家電部品などの多くの分野にわたっている。日系企業は、韓国、米国などの外資企業とともに、青島経済発展の原動力となっている。 青島経済技術開発区の中にある青島三洋電機有限公司は、冷蔵庫用のコンプレッサーを製造している。真秀哲夫・副総経理は、三洋が青島に工場を開設した理由をこう語る。
「三洋電機は冷凍冷蔵用・空調用コンプレッサーの生産を、日本をはじめとする世界六拠点で展開してきました。最適地生産・最適地販売という観点からグローバル戦略のもと、かねてより中国に冷蔵庫用コンプレッサーの生産拠点の設立を検討していましたが、青島に本社を置くハイアール集団との包括的協業を機会に設立を実現しました。ここで生産されるコンプレッサーはインバータモデル(周波数可変)で、これからの中国の省エネ・環境に貢献するコンプレッサーで、世界一の生産工場を目指します」 青島三洋は2002年12月に生産を開始して以来、生産量は絶えず増加し今年は60万台を突破すると予測されている。 阪和興業公司青島事務所は、日系の貿易会社。長岡秀典所長によると、2000年に事務所を開設してから主に鉄鋼、食品、化学工業、木材などの輸出入に従事し、良い業績を収めてきたという。とくに、日本から輸入した鋼板は、中国の各製造業に原料として供給されている。業務の範囲を拡大し、水産品加工工場に加工を依頼し、新しい技術を採用し、労働者の質を高めることによって、その製品は競争力が強く、日本の顧客に歓迎されている。 青島に住む日本人 注目すべきは、青島に日本人会と日本人学校があることだ。これによって日本人は、安心して青島に住み、仕事ができる。
青島日本人会は1990年に設立された。現在、会員となっている企業は236社。主に、会員に対し定期的に外資企業に関する政策を伝達したり、会議や運動会、新年会などを開催したりして、企業間の交流を深めている。また、身体検査や医療講座を頻繁に開き、健康にも気を配っている。 青島日本人学校は、青島大学の華文学院内に今年四月に開設されたばかりだ。現在、児童は九人しかいないが、経験豊かな校長と四人の教師が日本から派遣され、国語、算数、音楽、体育など日本と全く同じ内容を教えている。また、地元の中国人と米国人の先生を招聘して、中国語や英語の勉強に力をいれている。 教材はすべて日本の教科書などを使い、児童は卒業後、日本の学校を卒業したのと同等の資格が与えられる。学校の教育設備は、情報教育で使うパソコンから体育で使う運動器材などが揃っていて、日本国内の学校と少しも遜色がない。地元の学校やインターナショナル・スクールとも交流をする予定である。 齋藤校長によると、家族を連れて青島に赴任してくる日本人が増えているため、この秋には児童数は18人に増え、来年には30人にはなるだろうと言う。このため学校側は転入してくる児童たちのための教室の準備を終えている。
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