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人間国宝だった鵜沢寿さんの娘さん(左から2番目)、娘婿の渡辺さん(左端)宅で |
日本の能楽と中国の崑曲(消滅が危惧される伝統劇)が2001年、そろってユネスコの世界無形遺産に登録されたことは、日本に足を運ぶ前から知っていた。そのため日本に着くと、能楽を観てみたいとの思いをより強くした。
私たちが宿泊したホテルは、偶然にも名古屋城にほど近く、向かいに名古屋能楽堂があった。
そこで私はためらわず、案内担当の男性に、「能楽を鑑賞してみたい」と希望を伝えてみた。彼は快諾したが、「僕が観てもわからない。すぐに寝てしまうと思うよ」と率直な意見を述べてくれた。それでも私は、「居眠りしたとしても、とにかく鑑賞したい」とお願いした。
東京で能楽を楽しむ
きっと、私と能楽には縁があるのだろう。しばらくして、琵琶湖の水資源保護区を見学した際、案内役を務めてくれた渡辺宗彦さんは、能楽の大家である故人・鵜沢寿さんの娘婿だった。寿さんは人間国宝だった方で、息子の速雄さんと郁雄さんは、今でも能楽の世界で活躍している。
2003年11月末、寿さんの七回忌に際し、東京の国立能楽堂で二日間にわたり記念公演が行われた。渡辺さんは、私たち夫婦をその公演に招待してくれた。
国立能楽堂は雅やかで静寂とし、厳かでしめやかな空気が漂っていた。芸術界の先人を追憶するためだろう。誰もが正装をしていた。その日私は、特に観客の年齢層に注目した。
中国では、能楽と類似の伝統芸能を観賞する観客は、中高年が多く、若者は少ない。若者がいたとしても、常連ではなく、礼儀に欠けるような気がする。
しかし、東京の国立能楽堂では、まったく違った印象が残った。多くの若者が真剣に舞台に集中していたからだ。舞台が始まると、館内はひっそりと静まりかえり、役者の一つひとつのしぐさ、一つひとつの道具に見入り、曲目が終わるまで、誰も立ち上がることはなかった。
『清経』に続き、『松虫』『鷺』などが演じられた。面をつけたシテ(能の主人公)は、舞台の向かって左からゆっくりと登場し、謡方と囃子方は、向かって右の切り戸口から現れた。
専門家によると、切り戸口は子宮を象徴し、生命の誕生を意味する。面をつけた役者の低く深みのある音色はわずかに震え、心に響いた。様々な仕舞は、洗練されていながら、力強さをあわせ持つ。時々、足を強く踏みつけ声を張り上げる姿には、山も動くがごとく迫力があった。私は心で味わい、その醍醐味を悟ろうと努めた。
ふと、『楊貴妃』という曲目があることに気づいた。唐代の詩人・白居易の『長恨歌』を改編した唐の明皇と楊貴妃の物語である。通説では、楊貴妃は「馬嵬ニツ」で死んだことになっているが、民間には、日本へ逃げ延びたという伝説もある。日本の友人は、「これは伝説のみで、舞台化は実現していない」と話し、「徐福伝説とは違って考証できる遺物や遺跡はない」と教えてくれた。
能楽と中国の伝統戯曲
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東京にある国立能楽堂で、能楽一家と記念撮影(左から2番目が筆者) |
研究によると、能楽は日本古代の猿楽が発展して完成した。鎌倉時代になると、猿楽が物真似主体だった他の歌舞芸術の技法を取り入れ、さらに田楽の素朴な手法も吸収した。それにより、一世を風靡した大和観世座が形作られ、観阿弥、世阿弥親子という、能楽の天才的な芸術家を生んだようだ。
のちに彼らは、大衆化した芸能と神楽を結び付け、神社の祭事音楽を作り出し、同時に市民向けの公演も行った。そして多くの流派が生まれ、三面が観客席に向く現在まで残る四角い舞台が形成された。能楽のこのような四角い舞台は、神社の神殿が影響しているともいわれる。
私には、その形は中国の崑曲や京劇などの伝統戯曲と非常に似ているように見える。専門家も、能楽には崑曲、京劇などと類似点が多く、セリフと謡があるという。謡の部分では、どの芸術も音韻の調和を重視し、格調の高さ、優雅さを追求している。舞台そのものにも共通点があり、これらの伝統芸能は幕を使わず、背景もない。劇中の時間、場所、環境、ストーリーは、すべて役者の謡やセリフ、しぐさ、手に持った小道具で表現する。
例えば、世阿弥が作りあげた「夢幻能」では、虚構の世界を表すために、役者は面をつけ、演技には虚構性を帯びさせる。
能楽での「哀しみ」は、手で顔をおおったり、顔をわずかに下に向けることで表現する。
一方で崑曲や京劇も、日常生活の様々なしぐさを大げさに取り入れることが、演技の特徴である。例えば、手で顔をおおえば、能楽と同じように悲しみ、足踏みをして足を上げれば、敷居をまたぐなどの意味がある。手に持った扇子が閉じれば刀や槍、筆を表し、開けば手紙や窓、扉を指すなど、様々な意味がある。
能楽と中国の儺戯
現存する240以上の能楽の曲目の中には、人と幽霊の対話を表現したものが少なくないという。シテが演じるのは、情愛におぼれ、鬱になって命を絶つ女性、のろいで蛇身になった女性、戦争に命を捧げた武士の亡霊、菊の神、獅子の神などである。そのため、能楽は「幽霊の芸術」とも言われることを知った。
では、このような伝統的で神秘的な芸術は、なぜ「能」と呼ばれているのだろう。私は、東京都立大学の中国研究者である渡辺欣雄教授に質問してみた。
渡辺教授は、中国の儺戯(鬼やらい)とかかわりがあるという。中国語の「儺」と「能」の発音が近いだけでなく、その起源、機能、造形、演技のプロセスなどで、両者には共通点が多いからだ。
中国の古代には三大祭りがあった。雨乞いの「ウ祭」、神を祭る「臘祭」、厄払いの「儺祭」である。
旧暦11月の最終日に行われる「儺祭」では、面をつけた踊り手が、手に武器を持ち、悪鬼を追い払う様子を演じる。
「儺」は、「宮廷儺」と「民間儺」に分けられる。二千年前には、孔子が朝服(朝廷に出仕する際に着る服)を着て階段のところに立ち、「郷人儺」(「民間儺」の一派)の役者を迎えた。のちには、寺の鬼やらいを専門にする「寺院儺」、士気を高め相手を脅すための「軍儺」も生まれた。さらには「儺」に娯楽性が加わり、徐々に演劇性が生まれ、「儺戯」へと発展したのである。
儺面の種類は多種多様で、神聖や善良を象徴する正義の神面、凶暴や邪悪を象徴する不吉の神面のほかにも、また大衆を代表する世俗の面、滑稽やユーモアの道化面などがある。
民間では、面をつけると、人間界、霊界、神界がつながると考えられている。そのため、面はとても神聖なものとされ、完成に際しては、必ず祈祷師による開眼式を行い、初めて「神」が宿る。
舞台の前に箱から取り出す際と、終了後に箱にしまう際には、きまって面を祭る。しかも、面を跨ぐことは許されず、女性や子供に触れさせてはいけないなどのしきたりがある。このような規則があってはじめて、面に神通力が宿り、「一つの儺戯で百の悪鬼を追い払う」という諺が意味深くなるのだろう。
同様に、日本の能楽でも面を敬っている。能役者は舞台に立つ前に、舞台裏の「鏡の間」でうやうやしく面をつけ、幕切れのあとにも「鏡の間」でしばらく鏡と向き合う……。
最近、中国の北方では、めったに「儺」が見られなくなった。南方の江西、湖南、貴州、四川、チベットの各省・自治区に住む漢、ミャオ、トゥチャ、プイ、イ、トン、チベットなどの民族の村では、「儺舞」と「儺戯」が伝承されてきたが、これらの地でも消滅が危惧されている。
格調高い能楽も、存続の危機があったと聞く。しかし日本政府と国民が、無形文化財として保護するなどの対策をとり、東京、大阪、名古屋などの大都市には、国立能楽堂が設立され、能楽の定期公演が行われている。
また、優秀な能役者を「人間国宝」として保護し、後継者の育成を援助している。能役者自身も知恵をしぼり、世界各地で文化交流をしたり、大学にクラブを立ち上げたりすることで、若者に能楽を伝える努力を欠かさない。
そのほかにも、政府が税金を免除するなど、能楽の存続と発展に、経費の面から保障を与えている。冒頭で触れたとおり、いまではユネスコの無形遺産にも指定され、胸をなでおろしている人も少なくないだろう。
親切な能楽一家
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中国貴州省に伝わる民間の儺面
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より深く能楽の世界を知るため、私たち夫婦は、渡辺さんが住む愛知県江南市にも足を運んだ。そこは郊外の高級住宅地で、温もりが感じられる場所だった。敷地内には茶室まであった。
渡辺さんの奥さんは茶道の師範であり、能楽の世界には入らなかったが、多くの貴重な能楽関連のビデオ、カセット、写真、記事、道具などの資料を保存している。夫婦ともに、能楽の普及に努めている方々だ。
彼女は、父親の生前の舞台写真を使ったカレンダーを出してきて、私に贈るといって引かなかった。好意に甘えてばかりはいたくなかったが、分けていただき、ビデオテープから、いくつかの有名な場面も録画させていただいた。
そして、すばらしい日本料理に舌鼓を打ち、名残惜しくもおいとまする時間になった。私たちを駅まで送ってくれた二人は、なんと、切符までも用意していてくれた。至れり尽せりの歓迎に心から感激したものだった。
こんな様々な経験をした私は、帰国後、「うやうやしく能楽を聞く」という短文を書き、広東省広州市の新聞『羊城晩報』に発表した。それを渡辺さん夫婦に郵送した後、速達で小包が届いた。中には能楽の曲本、扇子、日本の茶葉、茶具が入っていた。
日本の伝統芸能が、中日双方の人間の友情を育んだことに、鵜沢寿さんも、天国で喜んでいてくれることと思う。
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