安徽省・関麓村
 
 
魯忠民=写真・文
豪商の繁栄しのばせる古建築群

 
夕日のもと、水墨画のような関麓村

 
   
  華やかに飾られた「八」の字型の門

 
   
  「吾愛吾廬」の扁額のある門。中庭は学堂庁(塾)だ

 
   
  大型の「四合屋」の客間
 
   
 

「四合屋」には上下二つの客間がある

 
 
 
 
天井絵画の部分」
 
 
 
  百年以上の歴史をもつ寝台
 
 
 
  台所の外壁には自家製の臘肉(塩漬けの干し肉)が掛けられている

 
 
 
  すばらしい環境の関麓村。村の前に小川が流れ、その源が武亭山麓であるため、武水と名付けられた。村の入り口に水面三千平方メートルの池があり、その形が弓張月に似ているため「月塘」と呼ばれている


 
 
 
 
正門を入ると左側が書房だ

 
 
 
 
寝室の出口

 
 
 
 
二人用暖房具の「火桶」。実用的で石炭の節約にもなり、家族の和やかな雰囲気も増す

 

 中国安徽省南部の丘陵・山岳地帯には、内外に知られる景勝地・黄山のほか、きわめて特色をもった明・清代の古い民家が数多く残されている。隣接する浙江省西部や江西省北部とともに、古代の「徽州」に属していたため、それらの民家は学者たちに「徽派建築」と称されている。県西武郷にある関麓村は「徽派建築」の残る集落で、徽商(古代徽州の商人)の血縁者が集まる典型的な場所である。

 黄山は、古く「イ山」と呼ばれた。そのため、イ県はそこから名を得た。県内に連綿とつづく山々は黄山と一体となり、あたかも「世外桃源」(俗世間外の桃源郷)のような環境をつくり上げた。晋代の文学者であり詩人の陶淵明は、まさにここの環境や風情に啓発されて、不朽の名作『桃花源記』を書き上げた。そのため、イ県は古くから「桃花源にある家」と称えられている。

 県内には現在、ほぼ完全なまでに保存されている古い民家が三千六百棟ある。うち西逓、宏村という集落は、世界文化遺産リストに登録されている。そして、イ城(県庁所在地)の西南八キロに位置する関麓村は、「古イ桃花源」にある一粒の真珠だといえる。

 関麓村は五代十国の後唐時代(923〜936年)に創建され、すでに千年以上の歴史をほこる。「汪」姓を主とする人々の集まる村落である。『官路汪氏族譜』によれば清の乾隆時代、ここに汪昭 という人がいた。八人の子宝に恵まれて、後に「関麓八家」と呼ばれるようになった。はじめは「春満庭」という古い屋敷に住んでいたが、やがて行商のため、ほとんどが出払うようになった。彼らは江蘇省や浙江省、安徽省などの地で特産品を買いつけ、長江下流へ持ち運んで売り、さらに売上金で日用品を買い、もとの地に持ち帰っては売っていた。そうして商売は徐々に盛んになった。兄弟たちが相次いで春満庭の周りに家を建て、世に聞こえる「関麓八家」という連体古民家(家々がつながっている建築群)が造られていった。それは連体古建築を代表する建造物となっている。

 関麓村は、徽商のふるさとである。明・清代に、徽商は江南地方における経済・財政の重要なポストにあった。彼らは長年、外の地方で商売していた。妻子を家に残して田畑を買い与え、定期的に生活費を送っていたが、せいぜい年に一度か、三、四年に一度しか帰らなかった。老後ようやく自宅に落ちつき、悠々自適の余生を送って骨を埋めたのである。大もうけした徽商たちは、相次いでふるさとに邸宅を建て、祠堂を造り、庭園や書院(昔の学校)、寺を興した。「退職後はふるさとに帰り、半ば隠居した田園生活を送る。自然に親しみながら、親族と和やかに過ごす」――。それは、徽商たちの老後に対する憧れだった。そしてそれも村の構造や家屋の建設に大きな影響を与えたのである。

 村の入り口は「水口」と呼ばれ、徽派建築のうち最も重視されるところである。関麓村の入り口には、もともと四棟の祠堂があり、何本かのクスノキの大木や黒石造りの欄干のある「月塘」(弓張月の形の池)、関帝廟、社廟(鎮守神を祭った寺)などがあった。残念ながら、祠堂や廟はここ数十年のうちにすべて取り壊されてしまったという。

 徽商は「儒商」(儒学者風の商人)と自負し、読書をよくして道理をわきまえる人々だった。彼らの田園生活は、じつに優雅で上品だった。関麓村は小さな村落なのだが、それでも十数棟の教学庁(教室)がある。「関麓八家」だけでも六軒に塾が開かれ、今でもそれぞれ「安雅書屋」「臨渓書屋」「問渠書屋」「双桂書屋」「学堂庁」「小書斎」と呼ばれている。

 民家の門の扁額にある「吾愛吾廬」という題字は、清代の有名な書道家・趙之謙によるものだ。また、かつての県の書道家で、画家の汪曙が暮らした家も関麓村にある。村の長老によれば、「われわれ汪家の祖先は商売もしたが、勉強もした。お金をもうけ、人を育てた」ということである。

 関麓村に入ると、「馬頭牆」(階段の形をした切妻壁)や弓型の壁、黒い瓦、白い壁が互いに組み合わさり、美しい輪郭を生みだしていた。民家の正門上部には黒いレンガが飾られており、橋のかかった小川が正門をとりまくように流れていた。各家に入ると門楼(屋根つきの門)、中庭、客間、寝室、台所など、それぞれの配置に工夫が凝らされ、家具は昔ながらの伝統的なスタイルで置かれ、幅広の掛け軸やその両側に掛けられた対聯(めでたい対句を書いたもの)などがいずれもそろっていた。レンガや石、木の彫刻が吹き抜けになった中庭周囲の建物に施されており、じつに華やかで精巧な造りである。しかし、そのほかの造りは簡素で質朴、華麗でありながらスッキリしており、重点をより際立たせていた。

 関麓村には現在、明・清代の建築物が三十数棟あり、「関麓八家」がその代表とされている。南向きに建てられており、主に「武亭山房」「春満庭」「吾愛吾廬」「学堂庁」「臨渓書屋」「大夫第」「瑞靄庭」「安雅書屋」など、合わせて二十棟の民家が建ち並んでいる。敷地面積は約六千平方メートル。

 とりわけ「関麓八家」は、ハッキリとした特徴を持っている。

 それは第一に、独立した八軒の民家が一体化していること。それぞれ中庭や客間、庭園を持ち、アンズの枝が壁を越え、幾重もの垣根が家を囲み、家屋や建物がつながり、渾然一体となっている。

 第二に、邸宅の客間に金泥や彩色を施した絵が描かれていること。彩色画や木彫などはいずれも美しく、古いもので二百年以上、新しいものでも百年以上の歴史をほこる。それはいまでも目を奪うばかりに鮮やかである。

 第三に、外へ出なくても他の家が望めること。それは敷地を節約するだけでなく、集落の管理にも有利であった。こうして「関麓八家」には、明・清代に同族が集まって住んだ特徴がよく現れている。

 現在の関麓村には、徽商はもういない。ここに居住している人たちは汪家の末代であれ、後から入った他姓の者であれ、いずれも農業に従事している。

 若者はそのほとんどが外へ出て、勉強したり、臨時工をしたり、商売をしたりしている。子どもが外で稼いだお金で、新式の家を建てる人もいる。村に残っているのは大部分がお年寄りだ。彼らは古い民家が気に入っており、昔の通りに草を刈り、牛を飼い、水田を耕し、小川で洗濯をしている。ここでの田園生活に慣れているのだ。

 一方の若者たちは農業などには関心がなく、都会の生活を必死で追い求めているようだ。それでも古い民家の保護に対しては、理解と支持を寄せている。絶えず観光客が訪れるため、民家の文化的価値を理解し、それを誇らしく思っているのである。