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二次葬の塚が見守る課外活動
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現在のバスケットボール・コート。ここにあった墓が移設されたのでひろくなった |
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文・写真 丘桓興
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広東省・高思郷の「僑興中学」での暮らしは辛かったけれど、課外活動はとても楽しく、活発だった。朝六時起床。身じたくを整えると、東の山の坂下にあるバスケットボール・コートへ急いで向かった。朝の体操をするためだ。不思議なことに、体育の黄国椿先生はコートの北側にある墓の上に立って体操をするのだった。
客家人には「二次葬」をする習慣がある。人が亡くなり土葬してから4、5年後、その身内の者が棺を開いて遺骨を拾い、ツバキ油で遺骨をきれいに拭いてから、陶製の甕に納める。その後、「風水」によって縁起のよい場所を選び、永久的な墓を造る。墓の形は客家の住まいの「囲屋」に似ているばかりか、「太師椅」(昔、尊位の者が使った半円形の木製椅子)にも似ているために、俗に「椅子墳」と呼ばれている。民間では、先祖が墓に座って休んでいると考えるので、それを恐いものとは思わない。それで高さ50センチの墓の台が、時として体操台になったり、講壇になったりしたのだ。凌倫星校長も、よくそこに立って生徒たちに講話していた。おもしろいのは、その故人の親族が、怒るどころか誇りを感じていたことだ。子どもたちが毎日、地下にねむる先祖の目の前で体操をしたり、ボールで遊んだり、ゲームに興じたりしている。先祖もさぞかし喜んでいることだろう、と。
バスケットボール・コートは、当時の娯楽センターだった。5月1日のメーデーや10月1日の国慶節になると、ここで「文芸の集い」が開かれる。東西の両側にあるバスケットの支柱にそれぞれガス灯が掲げられ、コートの中央は「舞台」になった。夜空を幕に、歌を歌ったり、ダンスをしたり、詩歌を朗読したり……。さらには漫才、寸劇、手品なども行った。そうしてみんな楽しい時を過ごしたのである。
少年時代の私は活発な性格で、歌うのも踊るのも大好きだった。『生活の始まり』という一幕物の新劇に出たこともある。私が演じた男の主人公は、中学を卒業したが、その上の学校には受からなかった。しかしガールフレンドの励ましを受け、帰郷して農業に勤しんだ。そして村の計理士となり、新しい生活が始まっていく――。ガールフレンド役を演じたのは、中学一年の羅華英さんだ。劇中二人が恋人同士だったせいか、この劇を演じた後に私たちは話すどころか、すれ違っても目を合わせることすらできなくなった。
先生方のパフォーマンスは、いつも楽しさの中に教えがあった。物理の王元昌先生はある時、「手品」を披露した。まず、薄い板を机の上に置く(板の一部は、机の外にはみ出している)。次に、板の上に新聞紙を広げてかぶせる。そして、ハンマーを振り上げて、机の外にはみ出した板を強くたたく。板は折れ、新聞紙は破れて吹き飛ぶのではないかと思ったが、バンという大きな音とともに板は折れたが、新聞はそのままだった。驚いた私たちを見て、先生はこう解説してくれた。「新聞紙はたしかに薄いが、その表面には目に見えない大気圧がある。気圧はかなり大きいのですよ」。この生き生きとした物理の授業は、いまも忘れられないものだ。
当時の私たちは赤いネッカチーフをつけた「少年先鋒隊員」で、隊員の活動も楽しみに満ちていた。
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「これからバスケットで遊ぶんだ」という小学生たち |
山村の子どもにとって山登りはもはや味気ないことなのだが、先生方は山登りを探検や学習などと結びつけ、楽しい登山ゲームを編み出した。私たちは三つのチームに分かれて、異なる三つのルートからゴール(少年先鋒隊の隊旗がはためく頂上)を目指した。途中には、いくつかの「関門」が設けられた。岩のすき間や草の陰、落葉の下などに隠された問題用紙を見つけ出し、そこに書かれた文学、歴史、地理、動植物などの質問に一つひとつ答えれば、次の「関門」に向かうことができる。わがチームは懸命に登り、順調に用紙を見つけて素早く答え、一番に登頂することができた。勝利の旗を振りかざし、まだ登っている最中のクラスメートに「がんばれ」と声をかける時には、誇らしい気持ちでいっぱいになった。
しかし、楽しかった課外活動にも、ときには不慮の事故があった。二日後に高校入試を控えたある日、学校側から「勉強と休憩を適当にして、課外スポーツ活動に参加するように」という指示があった。夕方、私は何人かの友だちと跳び箱をして楽しんでいた。ところが、私は不注意で、両手のバランスを崩して箱から落ちてしまった。マットを支えに立とうとしたが、右手にひどい激痛がはしった。右手を負傷してしまったのだ。山村には病院もなく、高校入試が手遅れになるのではないか? 痛みの上に気がせいて、私はたまらず泣き出してしまった。その時、教室で復習していたクラスメートの黄育賢くんが泣き声を聞いてやってきて、「大丈夫だよ。これは脱臼みたいだな。程官村にいるおばさんが打撲傷を治すことができるから、君を連れて行ってあげるよ」と慰めてくれた。
急いで向かった私たちは、暗くなるころには先祖伝来の「骨科」(整形外科)の医者の家に着いた。三十過ぎのおばさんは、ちょうど台所で夕飯の支度をしているところだった。ケガのようすを聞くなり、まずは私を台所の一角にあった腰掛に座らせた。そして前掛けで手をふいてから、私の右手の関節をなでたりひねったりして、細かく探っているようだった。突然、ゴホンと咳をしたかと思うと、両手で私の右手を引いて、そして押した。どうやら治療を終えたようだ。「まだ痛い?」。私が右ひじをさすり、振ってみると痛くない。そして驚喜して言った。「えっ、痛くないよ。ちっとも痛くなくなったよ!」。田舎医者が、ものの一分で私の脱臼を治したのは、本当に不思議であった。
当時、私はケガの治療に頭がいっぱいで、彼女の名前を聞き漏らしてしまった。今回、帰省した時に、私は恩人を訪ねて程官村へと向かった。彼女は「張二おばさん」と呼ばれ、三年前に亡くなったと村人から聞かされた。惜しい人を亡くしてしまった。だが、私のケガをすぐさま治し、高校に受からせてくれた張二おばさんを、私は永遠に心に刻んだ。
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【客家】(はっか)。4世紀初め(西晋末期)と9世紀末(唐代末期)、13世紀初め(南宋末期)のころ、黄河流域から南方へ移り住んだ漢民族の一派。共通の客家語を話し、独特の客家文化と生活習慣をもつ。現在およそ6000万人の客家人がいるといわれ、広東、福建、江西、広西、湖南、四川、台湾などの省・自治区に分布している。 |
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