[特別企画]

 
 
建国の精神を伝える西柏坡
       ――新中国成立五十五周年を記念して
 
                                         編集部=文

中国共産党第七期二中全会で報告をする毛沢東(写真提供=西柏坡記念館)

 西柏坡は北京市から南西へ300キロほどにある小さな山村にすぎない。しかし近頃、各界からの参観者が後を絶たず訪れている。

 西柏坡が注目を浴びているのは、歴史的意味合いが強いからである。1948年5月から1949年3月まで、中国共産党中央(中共中央)は解放戦争期における最後の総司令部を西柏坡に置き、著名な三大戦役を指揮した。中国革命の勝利の前夜、毛沢東は全党に向けて「謙虚で、慎み深く、おごり高ぶらず、あせらない作風」と「刻苦奮闘の作風」の保持を訓示した。これは通常、「二つの保持」と呼ばれている。

 あれから55年が経ち、中国の経済は発展し社会は進歩してきた。しかし一部の党員幹部はかつての優れた態度を忘れ、汚職や腐敗にまみれている。これにより中共中央の指導者はもう一度「二つの保持」を掲げ、共産党員が腐敗を拒み変質を防ぐように警鐘を打ち鳴らした。

北京から天下を治める

上海人民代表団のメンバーと記念撮影する周恩来(右端)、楊尚昆(左端)(1942年2月、西柏坡)(写真提供=西柏坡記念館)

 西柏坡は、河北省平山県の小さな山村である。華北平原と太行山が交わる場所にあり、三方を山に囲まれ、一方は湖に面している。華北の要衝・石家荘からわずか80キロの地である。

 風光明媚で交通の便もよいが、難攻不落の自然の要塞だったため、どこにでもありそうな小村が、中国全土に知られる革命の聖地になった。

 1948年5月27日、毛沢東率いる中共中央と解放軍総本部は西柏坡に進駐し、解放戦争期における中国革命の総司令部を置く。毛主席を中心とした中国共産党は、ここから中国内外を震撼させた遼瀋、淮海、平津の三大戦役を指揮し、新中国建国のたたき台となる構想を練った。

 49年3月23日、中共中央は西柏坡を離れ、北平(いまの北京)に向かう。75歳の閻二板さんは、いまでもぼんやりと当時の情景を覚えているそうだ。あの日、蔡脯河の北側にある十数の村には、米式大型トラックやジープが所狭しと止まっていた。

1948年当時のケ小平(右端)、賀竜(右から2人目)、聶栄臻(右から3人目)ら(西柏坡)(写真提供=西柏坡記念館)

 出発前夜、毛沢東は四、五時間しか眠らなかった。周恩来は体に触ると忠告したが、「うれしいのだから仕方がない。上京して『科挙試験を受ける』日なのだから。気持ちが昂ぶらないほうがおかしい」と返したといわれる。周恩来も意をくんで、「もちろん私たちは好成績をおさめるでしょう。撤退はあり得ない」と続けた。毛沢東はさらに、「撤退はすなわち失敗。李自成の轍を踏むわけにはいかない」と話した。

 李自成は、明末期の農民蜂起のリーダーである。1644年、いまの陝西省から河南省を経て、北京に進軍。明を滅ぼしたが、おごりから油断が生じ、内部分裂を防げなかった。しかも、リーダー陣の腐敗と堕落を招き、北京にわずか40日とどまっただけで、正式に即位した二日目には、南方に都落ちすることになった。

 中共中央が西柏坡を離れたことは、中国共産党が「天下を取る」から「天下を治める」に目標を転換したことを意味した。しかし、どう試験に臨み、どう好成績を上げるかが、目前に迫った課題として共産党員に突きつけられた。西柏坡を離れる10日前に終わった中国共産党第七期中央委員会第2回全体会議(第7期2中全会)の席上、毛主席は全党員に向けて、のちに「二つの保持」と呼ばれる次のような訓示をした。

 「全国的な勝利をかちとること、これは万里の長征の第一歩をふみだしたことにすぎない。……革命後の行程はもっとながく、その仕事はもっと偉大であり、もっと苦労のいるものである。……同志たちに、ひきつづき、謙虚で、慎みぶかく、おごり高ぶらず、あせらない作風を保持させなければならないし、同志たちに、ひきつづき、刻苦奮闘の作風を保持させなければならない」

「二つの保持」を心に刻む

西柏坡で社会実習に参加していた大学生と交流する江沢民総書記(写真提供=西柏坡記念館)

 中国共産党の北京入城から42年後の1991年9月21日、江沢民総書記が西柏坡を視察した。案内をしたのは、今年69歳の西柏坡記念館の賀文迅副館長。10年以上前の出来事にもかかわらず、当時を振り返る彼は、興奮を禁じ得なかった。

 江総書記の視察には、パトカーの先導も護衛もなかった。しかもホテルでの接待も、お茶を振舞っただけという質素なもの。のちに賀副館長が人づてに聞いた話では、これはすべて江総書記の指示だったという。

 江総書記は全ホールの展示品をくまなく参観し、さらに、毛沢東をはじめとした指導者がかつて寝起きした農家の平屋も隅々まで見学した。もっとも長く足を止めたのは、第七期二中全会の会議場だった。

 賀副館長は、ここはもともと中央工作委員会の炊事場だったが、のちに臨時の会議室として利用されたと説明した。会議の際には、各自が大小様々な腰掛けを持ち寄り、早く来た人から前に詰めたという。

 ケ小平も当時、34人の中央委員の一人として、この会議に出席している。改革・開放の過程でも、彼は何度も、「刻苦奮闘とは私たちの伝統で、質素で我慢強い教育を追い求めなければならない。我々の国が発展すればするほど、ますます勤勉に努力しなければならない」と強調した。

 同行者の回想によると、江総書記は参観を終えたあと、党旗のもとに立ち、一字一句を強調しながらこう言ったという。

雑談する胡錦涛総書記と西柏坡の村民(写真提供=西柏坡記念館)

 「私たちが毛主席の『二つの保持』を心に刻みさえすれば、中国共産党人は、永遠に不敗の地に立ちつづける」

 最後に江総書記は、「『二つの保持』を心に刻み、中国の特色ある社会主義を建設しよう」という揮毫を寄せた。

 西柏坡の記念碑の正面には、ケ小平が1984年に書いた「西柏坡」の三文字が、裏側には江総書記の縦書きの題辞がある。西柏坡はいまでは、精神的な根拠地となり、毎年約50万人が見学に訪れ、多い時には1日3万人が足を運ぶ。

脈々と続く「試験」

西柏坡記念館前で記念撮影する胡錦涛総書記一行(写真提供=西柏坡記念館)

 2002年11月14日午前、新しい総書記である温和な胡錦涛氏と八名の中共中央政治局常務委員会の新メンバーが、人民大会堂のスポットライトの前に姿をあらわした。このとき中国人は、「革命戦争後の新世代の中国共産党指導グループが、どのようにして中国をいくらかゆとりのある社会に変えていくか」を期待を込めて見守った。

 胡総書記はそれから20日後、メディアの注目を集めて西柏坡を訪れ、「今でも、ここから始まった試験は続いている」と述べた。

 全行程の解説を担当した蘭巧偉さんは、次のように振り返る。

 胡総書記は、記念館の全ホールを真剣に見学した。第7期2中全会の会議場では、色がまだらになった前列の椅子に腰掛け、当時の会議の様子や毛主席が提出した「二つの保持」の紹介を静かに聞いた。そして同行者に大きな声で、「我々は毛主席が提唱した『二つの保持』を心に刻まなくてはならない。そのためにはまず、自身から、一人ひとりの幹部からスタートしなければならない」と語りかけた。

 2日目、一行は雪を押して村に入り、庶民の生活情況の把握に努めた。

 「総書記は親しみやすい。まるで世間話をしているよう」

 胡総書記を招いた時の様子を、今年69歳の韓花珍さんは、感動を抑えきれない様子で話した。いつもテレビで見ている総書記が、雪にも関わらず自分の家を訪問し、表門から入ってきた時には、どう対応してよいかわからなくなってしまったという。

 胡総書記は家庭生活の状況、毎年の収入、穀物の備蓄などについて質問した。そして韓さんが農家を改造して民宿を開業したと知ると、民宿開業に掛かった経費、ローンの金額、経営状況などについて、細かく聞いてきたという。

 総書記が質素な服を身につけ、親しみやすい語り口だったため、韓さんの緊張もすぐにほぐれた。「まるで普通の幹部に思えた」と。

 視察の期間中、一行は、十数年前に修築された西柏坡ホテルに宿泊した。ホテル従業員の安雲霞さんは、「総書記が私たちの近くを通った時には、いつでも笑顔を絶やさず、会釈をしてくれた。時には、こちらからあいさつをする前に、『ご苦労様』と声をかけてもらえた」と回想する。

 夕食には、落花生、サトイモ、ラディッシュ、きゅうり、漬け物などの農家の料理が並んだ。調理長の任喜涛さんは、感慨深そうに、「総書記は忙しい時間を縫って、ここに視察にいらっしゃり、私たちの生活を見てくださったのだから、本来は、盛大に迎えるべきだった。しかし、普通の農家の料理を希望された」と話す。

 12月6日の昼食後、一行が視察を終える時がきた。誰もが驚いたのは、総書記が付き人に食費の支払いをさせたことだった。西柏坡ホテルの副総経理である封国慶さんはフロントで、普通でありながら、一生忘れられない領収書を切った。書いたのは、「支払人:胡錦涛、但し:5〜6日食費、合計:30元」という文字だった。

人間本位の親しみの持てる政府作り

SARS治療の第一線で活躍する医療関係者を見舞う胡錦涛総書記

 「権力は民衆のために使い、感情は民衆とつながり、利益は民衆のために生み出す」

 これは、胡総書記が西柏坡視察時に何度も強調した言葉である。2003年3月18日、国家主席に選出された席でも、改めてこの理念を披露し、また、「常に人民の公僕でありたい」と述べた。

 同じ日に、国務院総理になった温家宝氏は、内外の記者の質問に答えて、「私は人民の期待ケしひしと感じる。決して裏切ることはない。人民が私にくれた信頼、勇気、力によって、憲法が規定した私の職責を忠実に履行し、全身全霊を尽くし、民衆の期待に応えたい」と述べた。

 この日の海外での報道は、「胡錦涛・温家宝の新政スタート」と、おおむね好意的なものだった。

 新政府の成立から一カ月にも満たない2003年春には、02年末に発生したSARSの拡大が明るみに出た。新政府は、一部幹部を更迭し、専門家の意見をもとに断固とした対策をとり、沈静化に成功した。

 SARS騒ぎが拡大していた頃、胡主席と温総理はそれぞれ、広州、北京、昆明などで、一線で働く医療関係者を励まし、積極的に民衆と交流した。胡主席は、広州で情況が深刻化していた時期、事前の根回しなしに、広州の繁華街に足を運び、市民を驚かせ、SARSの解決への自信を与えた。

 当時のインターネットの掲示板には、こんな短い言葉が見られた。

 「錦涛さん、がんばってください」

 この言葉はすぐに流行語となり、多くの人が、かつて北京の大学生がケ小平に掛けた「小平さん、こんにちは」という言葉を思い出した。これは、新政府の指導者の指導力が、民衆から認められたことを意味する。

三峡ダムのある山村を視察した温家宝総理。農婦の熊徳明さん一家の未払い賃金問題を解決した

 2003年10月24日、温総理は三峡ダムに近い辺鄙な山村を視察した。そこで農婦の熊徳明さん一家が、建築会社からの給料未払いが原因で、子どもを学校に通わせられないとの話を耳にし、すぐに現地の関連部門に解決を促した。その結果、その日の晩に、熊さん一家は一年以上未払いだった二千元余りの給料を受け取ることができた。

 温総理は同行者に、「庶民が抱える問題について、一部の幹部は報告の意味すらないと考えている。しかし、庶民にとってはそれこそ一大事である」と述べた。

 これをきっかけに、全国で「給料未払い解決運動」が起こった。統計によると、今年3月末までに、建設部、労働及び社会保障部などの部門が農民のために取り戻した未払い賃金は、250億元を超え、全体の80%に達した。

 12月1日は、世界エイズデーである。2003年のこの日、温総理は呉儀副総理らとともに、胸にエイズ患者をいたわる意味をこめた赤いリボンをつけ、北京地壇病院の「赤いリボンの家」を訪問。エイズ患者三人と握手をし、病状、家庭生活、子どもの就学情況などを尋ねた。

 今年初めには、国務院は呉副総理をリーダーとするエイズ予防・治療事務委員会を立ち上げ、経済的に困難なエイズ患者に無料で薬品を提供するなどの五つの予防・治療措置を打ち出した。

 同時に、エイズによって活気を失った河南省のある村で、患者をいたわる活動を行った。具体的には、省内の150人近い地方政府の職員が、それぞれエイズ感染率の高い村で一年間、患者とともに生活することで、彼らの要望を切実に汲み取り、治療と生活での困難を取り除く手を差し伸べることに努めている。

 04年1月21日には、胡主席や温総理をはじめとする国家指導者が、炭鉱労働者、農民らと一緒にギョウザを包み、年越しを祝った。また、深雪にもかかわらず地震被災地の新疆ウイグル自治区を訪れ、洪水の被災地である淮河では、現地の人たちと同じ釜の食事をした……。

 これらすべての行動が、新しい政府の「庶民を第一に考える」という執政理念を感じさせる。

 また、中国の法制が、「人間への思いやり」に重きを置くようになりつつあることを多くの人が感じている。法律の制定や実施の過程で、公民権がかつてなく尊重されている。

 SARS騒ぎの頃、新政府は着実な対策をとっただけでなく、政府の公共管理と公共サービス機能をさらに強化し、突発事件に即座に対応できるメカニズムを打ち立てた。また、都市に出稼ぎに来る農民工の基本的な権利を保護するため、政府はかつての収容移送制度を都市救援制度に変更した。

西柏坡記念館で貴重な歴史的写真や資料を見学する観光客(写真・楊振生)

 03年10月1日には、新たな『婚姻登記条例』が執行され、自由結婚が保証された。また、「人権」の概念、公民の合法的な私有財産の保護などの条項が憲法に追加され、政府の人間本位という思想が反映されている。

 04年7月1日には、『行政許可法』が施行され、政府行政の「自己革命」もはじまった。
 誕生から一年以上が過ぎ、新政府は、各方面で目に見える成果をあげ、まったく新しい施政スタイルを示している。まさに、「民衆を愛し、透明で、法を重んじ、穏健な政府が、人民の前に登場した」と、海外のメディアが指摘しているように。