(最終回)
師の恩情は山のごとく重し
 
 
コンピューター教室で勉強している生徒たち
文・写真 丘桓興

 師を敬い、教えを重んずるのが客家人だ。幼いころの私は、教師の教えと愛情をタップリと注がれた。当時のことを思い起こせば、まさに「師の恩情は山のように重い」。そう強く実感している。

 1953年、広東省の「僑興中学」に入学したばかりのころ、私はよくマラリアの発作を起こした。患ったときには、一日おきに悪寒や発熱に見舞われた。ある日の午前、授業中にまた寒気がして、ブルブルと震えだした。教師は私に「宿舎に帰って休むように」とやさしい言葉をかけてくれた。しかし私は気が小さくて、一人で宿舎にいると恐くて眠れなかった。まずは食堂のテーブルの上に丸くなって横になり、次に寒さを覚えて震えだすと、炊事場でかまどの火に当たっていた。そして最後にどうしようもなくなると、ようやく宿舎に帰ったのだ。まもなく高熱を出して意識がもうろうとすると、大声でうわごとを言った。「お化けが出た!」。それはちょうど食堂で昼食をとっていた教師や生徒たちを、ひどく驚かせたようだ。

 湯晋漢先生はそれを聞くなり、すかさず走ってきてくれた。そして私を支え、彼の寝室へと連れて行った。扉が開くと、私はすぐに布団の敷かれたベッドに上った。そしてお化けが放つだろう竹の矢を防ごうと、白い布団を頭からスッポリかぶった。湯先生はその日の午後じゅう、私を見守っていてくれた。

 夕方になると熱も下がった。私が自分の失態を、とくに汚れた足で白い布団を汚してしまったことを詫びると、「君のひどい発熱には、手に汗を握ったよ。思わぬことでもあったら大変だからね」と、先生はようやく安心したようすで一気に話した。当時、僑興中学には医務室がなかった。医科大学を卒業した王元昌先生が、校医を務めていた。しかし診療室も薬局もない。先生は仕方なく化学実験室から長くて太い温度計を持ちだして、私の脇の下にそれを挟み、両手で支えて体温を測ってくれた。

 王先生には、数々の思い出がある。ある晩、ぐっすりと眠っていると、隣で寝ていたいとこの丘梅興が突然、大声を出して私を起こした。梅興は床に座り、首の後ろをなでながら、「何かがボクに噛みついた」と言う。そこで懐中電灯をつけて、まくらやござ、蚊帳の上などを探ってみた。すると、蚊帳の出入り口のあたり、継ぎあてをしたところに一匹のムカデがチョロチョロしていた。なるほど、この害虫が梅興の首を噛んだのか。私は急いでベッドから下りると、木製サンダルで継ぎあてを両側からバシッと挟み、ムカデを殺した。

 ムカデに噛まれた梅興は、傷口が心臓にも頭部にも近いことを知ると、毒が回り、命が危ないのではないかと不安を覚えて泣きだした。どうしたらいいのだろう? 私は王先生を呼びに行った。ランプの灯火で授業の準備をしていた王先生は、それを聞くなり急いで助けにやってきた。傷口を見るとすぐに手を当て、毒を外へ絞りだした。その後、実験室から持ってきた消毒液で、傷口をきれいに洗った。梅興は無事だった。

 王先生は全校の物理と化学の教師で、学校指導主任であった。教師が授業をあけるのを一度も許さなかったのである。美術教師が公務で外出したときは、王先生が代理で授業を行った。見ると、先生はチョークを持って絵のポイントを説きながら、黒板に絵を書いている。ほどなくして、今にも動き出しそうな一匹の大きなエビが黒板にありありと描かれた。また、あるときは体育教師が病欠したので、王先生が代わりに授業を行った。白い運動着を着て、鉄棒や平行棒を使ってすばらしい実演を見せてくれた。そのたくましいながらも軽々とした身のこなしは、ツバメが空を飛ぶ姿を彷彿とさせた。「王先生は運動選手だったんだ」と、大いに感心させられたものだ。

 国語教師の羅万権先生は、私のクラスの担任だった。中学校教師として、いつも私に「人として、どうあるべきか」を厳しく指導してくれた。

僑興中学の生徒たち。新築された化学実験室で実験を行っている

 こんな出来事があった。政府の政治宣伝活動に協力するため、学校側が石灰を買ってきた。それで石灰水を作って、付近の村落にスローガンを書く準備をした。ある日の夕方、私はふと、小さないたずらを思いついた。石灰水のついたスローガン用のホウキで、そばの荒れはてた小さな塚を何回かこすったのだ。ところが、ちょうど羅先生に見つかった。私は叱られ、「始末書を書くように」と諭された。しかし、どうしても始末書を書くのがいやで、「自己批判するような過ちを犯しましたか?」とわざと反抗したのである。すると、「少なくとも石灰をムダにしたではないか」と先生。私は「ムダですか? 向かいは石灰工場ですよ。百斤(1斤は500グラム)の石灰が、たったの数角(1角は1元の10分の1)。それで数百斤の石灰水ができますよ。二回ほどこすったところで、1分(1角の10分の1)にさえもなりませんよ。これがムダと言えますか?」と、なおも強気に出て言った。羅先生はへりくつをこねる私を諭したが、しかし私は過ちを認めなかった。

 先生はこの事件を取り上げて、同級生を教育することにした。まもなくして、同級生の劉欽栄さんが書いた批判文が黒板に記された。「千里の大堤も、アリの穴から壊れる」……。初めて黒板上で批判され、私のメンツは丸つぶれだった。しかし、後になってようやくわかった。一分にも満たない石灰であるが、「善は小さくても行う、悪は小さくても行ってはならない」という人生の道理であった。

 恩に報いるときがきた。2001年、広州と深セン、広東省のふるさとで働いていた校友の湯孟松、許天発、黄華根、陳善華の各氏が資金を募って、ご健在の王元昌先生らの家を訪ねることになった。しかし、王先生のふるさと平遠県まで来たとき、先生が二カ月前に亡くなったことを知らされた。哀痛のきわみであった。そこで彼らは校友を代表して遺族を慰問し、先生の自宅わきに石碑を建てた。碑には、「恩師王元昌先生千古」(恩師の王元昌先生とこしえに)と刻まれたという。

 
  【客家】(はっか)。4世紀初め(西晋末期)と9世紀末(唐代末期)、13世紀初め(南宋末期)のころ、黄河流域から南方へ移り住んだ漢民族の一派。共通の客家語を話し、独特の客家文化と生活習慣をもつ。現在およそ6000万人の客家人がいるといわれ、広東、福建、江西、広西、湖南、四川、台湾などの省・自治区に分布している。