古代シルクロードを渡る新しい風
 
                                    王衆一 侯若虹=写真・文  

紅山公園からウルムチ市を望む(写真・王衆一)

 北京から東京までは現在、飛行機で約三時間半がかかる。しかし、北京から西へ、新疆ウイグル自治区(新疆と略称)の区都・ウルムチまで行くのにも、空路三時間半がかかるのだ。飛行機は広大なテンゲル砂漠を越えていった。この空間は、中日両国の距離よりも、さらに大きく感じられた。飛行機の左翼方向に、真っ白な雪をいただく山々が現れたとき、客室乗務員がアナウンスで「この天山山脈を越えると、ウルムチに到着します」と教えてくれた。

 しかし、ウルムチに降り立つと、時空の距離感は現実的な風景によって、すっかり打ち消されてしまった。空港の巨大な屋外広告に写しだされた張曼玉と梁朝偉のほほえみは、他の大都市と少しも変わるところがなかった。アメリカの大作映画『トロイ』は大都市とほぼ同時上映であり、人民劇場ではその晩、1万7000元(1元は約13円)の興行収入があったそうだ。また、アイルランドの著名な『大河の舞』も、ウイグル族の役者たちが国際バザールの演芸舞台で披露していた。ケンタッキーやカルフールなどウイグル文字を併記した看板がイスラム風建築に映え、とくに目をうばわれた。経済のグローバル化は、北京から遠く離れたこの区都と大都市との距離を、ぐんと近づけているようだった。

ウイグル文字を併記したケンタッキーの看板があるイスラム風建築――ウルムチ国際バザール(写真・王衆一)

 それでも、街頭に充満しているシシカバブー(串刺し羊肉)や「手抓飯」と呼ばれるご飯を焼くにおい、通りを行く刺繍入りの帽子をかぶったウイグル族の老人や紗のスカーフをまとったウイグル族の女性、バザールにひびく中央アジアや中東から来た商人の売り声などが、ここがかつて36国の置かれた西域の地であることを、ハッキリと教えてくれた。20世紀初め、スウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンが中央アジアを探検した際、ここに逗留したこともある。

 しかし、時代が移り変わるにつれて、ここは早くから探検家たちのパラダイスでも、中央政府が手をこまねいた混乱の地でもなくなった。1955年10月1日、新中国の成立後6年にあたり、新疆ウイグル自治区がその成立を宣言した。新疆はこのときから各民族が互いに平等につきあい、平和に建設し、開発するという新しい段階を迎えたのだ。

 新疆の面積は、約160万平方キロ。天山山脈を境界線として、南疆と北疆にほぼ二分される。時間の制約から、今回は北疆のイリ一帯に牛羊が放牧される自然の風景を見ることはできなかった。また、南疆のカシュガルやホータンで独特な民族風情にふれる計画も割愛せざるをえなかった。最終的に決まったコースは、南・北疆を縦断し、古代シルクロードに沿って主要な都市をいくつか巡るというものだった。

亀茲国の遺風

砂漠に生える胡楊の木(写真・侯若虹)

 シルクロードは、新疆の歴史と文化を知るキーワードであり、経済グローバル化がすすむ現在、古代の知恵を学ばせてくれる鏡でもある。

 ユーラシア大陸を中心とする長い時代、新疆地区に横たわるシルクロードは東西文化交流の大動脈であった。その地理的な位置と役割は、おそらく現在の太平洋と同じであろう。漢・唐の時代またはそれ以前、中国人の発明と物産はこの道を通って西方へと伝えられ、西方や沿道各国の発明と物産が、またここを通って伝来したのだ。

 ウルムチの新疆民族風情街にある民俗博物館では、「西域36国展」という展覧会を催していた。シルクロードの沿道文化の多様性や、この地域が文明交流の中心であることを生き生きと紹介していた。ここに展示されていた撥弦楽器(指先やバチなどで弦をはじいて演奏する楽器)は、それがペルシャをルーツとし、シルクロードを渡って幾度もの変遷を経て東方へと伝えられ、日本の琵琶や三味線に影響をおよぼしたことを教えてくれる。

 かつての西域36国は、もはや存在しない。しかし北疆のクチャ県では、今も古代亀茲国の遺風がうかがえる。クチャ人に言わせれば、彼らがもっとも誇りを感ずるのが亀茲文化である。古代亀茲国は仏教を重んじ、もとより「西域仏教国」と称されていた。当時、亀茲国内には石窟が八カ所にもおよび、多くの壁画がいずれも大乗仏教の教えを描いていた。クチャ県博物館に展示された壁画の模写には、釈迦が前世でなんども犠牲になったという善行物語が表されている。そのうちの「本生譚」(ジャータカ、釈迦の過去世物語)は、躍動的な画面で趣があり、豊かな想像力に富んでいる。

 クチャ地区のもっとも重要な建築遺跡は、スーバーシ故城である。もはや突き固められた土壁が一部残るだけだが、当時の気勢がまざまざと蘇るようだ。この故城は、もとは仏教寺院であった。唐僧(玄奘)たちがインドへ経典を取りにいく際、ここで仏教を説き、一カ月以上逗留したと伝えられる。

砂漠の中の緑

耐乾植物の梭梭(砂漠地区に生える低木の一種)。その生育に定地パイプ灌漑が用いられている(写真・任国良)

 初めて訪れた新疆で、とくに気にとめたのが緑であった。旅の途中、前方に緑のある光景や、ポプラや果樹に囲まれた民家、悠々と草をはむ牛羊、労働をしている人たちを目にしたときは、必ずその近くに大小の河を認めることができた。「これは山上から流れてきた、雪解け水なんですよ」と土地の人が教えてくれた。

 天山山脈の雪解け水が、新疆の土地をうるおしている。水があればオアシスがあり、オアシスがあれば、人々の家がある。古代シルクロードでは、こうしたオアシスがとりわけ重要だったことが想像できる。しかし、そのオアシスはきわめて脆弱だった。当時、トルファン一帯では、カレーズ(地下水を人工地下水路で導く設備)が重要な灌漑方法として利用されていた。しかし、今ではそれが観光資源として活躍の場を広げていた。外国から導入された定地パイプ灌漑技術がカレーズに取って代わり、新疆全域のオアシスを維持しているのだ。

 バイングル蒙古自治州のコルラ市に着くと、枝葉を茂らせた街路樹と豊かな緑地が目を休ませてくれた。夏の夕方、人々が涼を求めて孔雀河の河畔をぶらぶらと歩いている。砂漠と隣り合わせた都市であることを思えば、こうした光景はじつに感慨深いものがある。しかしここの住民たちは、けっしてそれで満足している訳ではない。彼らは周囲の荒れ山が、緑で覆われることを望んでいるのだ。

 コルラの人々は、97年から大規模な「荒山緑化プロジェクト」をスタートした。地元の山はいずれも岩山だったため、植樹はきわめて大変な作業だった。人々は土を担いで山に登り、地元の気候にもっとも適した耐乾植物を植えていった。たとえば、胡楊(ヤナギ科ハコヤナギ属の植物)、ハリエンジュ、砂棘(クロウメモドキの一種)などだ。その後、定地パイプ灌漑技術を使って、どの植物にも貴重な水が行き渡るようにした。こうした灌漑方法により、造林の成長率は90%以上に達した。また伝統的な灌漑方法に比べて、73%の節水となった。現在、コルラ東側と北側の山上2260ヘクタールに、各種の植物が植えられている。地元の人はこうした緑が森林となり、砂漠と隣り合わせの都市の砂塵が収まり、雨が多く降ることを切望している。

名高い香梨

古い遺跡の交河故城(写真・侯若虹)

 何年も前に、コルラ特産のナシの話を聞いたことがある。歩きながら食べると、その香りにミツバチが寄ってくるというのだ。それがコルラ香梨である。

 コルラに着くと、ちょうど香梨が熟す季節で、道端や畑、水路のわきや民家の庭など至るところに、果実がたわわに実っていた。

 コルラのナシ栽培は、二千年の歴史をほこる。言い伝えによれば、古典小説『西遊記』の中で、猪八戒が盗んだ「人参果」は、じつはコルラ香梨だった。真偽のほどはわからないが、香梨はたしかに皮が薄く、歯ざわりがいい。果汁が豊かで、甘くておいしい。この種のナシには糖分が10%、水分が86%以上含まれており、ビタミンCもじつに豊富だ。土地の人の話によると、かつて香梨の種をコルラ以外でまいてみたが、実ったナシの品質がおちてしまった。その逆に、外地のナシの種をコルラにまくと、原産地を超える品質になったそうだ。コルラの気候と土質が、ナシの生育に適しているからだろう。

 コルラのある村で、ウイグル族の農民トルディ・アイバイさん(四十二歳)のナシ園を見学した。

ナシ園にいるトルディさん(写真・侯若虹)

 このナシ園は、地元でも有名だった。というのも、トルディさんが古木の幹を切り捨てて、残った枝にじゅうぶんな光合成をさせるという果樹の「開心」技術を発明したからである。それにより、香梨の生産量と品質はぐんと上がった。

 地元の多くの農民が、トルディさんの技術を学んだ。彼の19歳の娘も、ナシの栽培技術を継承し、発展させるために、市内のバイン職業技術学院で園芸を学んでいる。

 コルラの属するバイングル蒙古自治州では現在、香梨の栽培面積が3万2000ヘクタールとなり、年間生産量は15万8000トンに上っている。そして、鮮度を保つ技術や運送手段の向上で、いまや北京や上海、香港の市場でも香梨を買うことができる。

 トルディさんのナシ園では、ナシを選ぶコツも学んだ。たとえば、ナシの底部がくぼんでいれば「母梨(雌)」で、凸型であれば「公梨(雄)」と言うが、「母梨」の方が甘いそうだ。興味があれば、ぜひ試してみてほしい。

西部を牽引するエネルギー産業

砂漠の公園に憩う(写真・王衆一)

 コルラから南へ向かうと、見渡すかぎりのタクラマカン砂漠であった。他の地区の人たちにとって、砂漠はすばらしい景色であるとともに、恐怖の「死の海」でもある。しかし、コルラの人々にとって、タクラマカン砂漠はむしろ「希望の海」である。

 中国はすでに1950年代に、タクラマカン砂漠で石油と天然ガスの資源探査をはじめた。しかし、資金と技術装備の制約で、長らく進展は見られなかった。

 89年、中国は東部を安定させ、西部を発展させるという石油工業の発展戦略を打ち立て、コルラでタリム石油探査・開発指揮部を組織した。その時からタリムの石油探査と開発は、幕が切って落とされたのだ。この15年来、タリム盆地で38の石油・天然ガスの油層が発見され、油田と天然ガス田がそれぞれ14、探知された。確認された石油の埋蔵量は四億トン、天然ガスは6579億立方メートルだった。この開発で、現地のインフラ施設建設への投資は、投資総額の47%を占めたという。

砂漠の自動車道路(写真・任国良)

 タリム油田により投資・建設された全長522キロの砂漠自動車道や、11本の全長890キロの輸送・交通共用道路、南疆の鉄道建設を支援するプロジェクトなどは、現地の経済発展にプラスの影響をもたらした。南疆のために建設された天然ガス供給施設と都市の液化ガス施設は、地元の人たちの生活を改善させただけでなく、環境保護にも大きな作用をおよぼした。コルラ市の居住区の改造と、孔雀河沿岸の環境整備なども、油田からの大きな支援を受けたという。

 コルラ市から出発し、自動車で四時間走ると、輪南油田に着いた。「西気東輸」(西部の天然ガスを東部へ送る)の出発点だ。周囲は広々としたゴビ砂漠だった。驚いたのは、ここからパイプラインで4000キロ先の沿海都市・上海まで、天然ガスを輸送することであった。

西気東輸プロジェクトの出発点(写真・侯若虹)

 2002年にはじまった西気東輸プロジェクトは、中国の西部大開発の重要な一環である。このプロジェクトによって、パイプライン敷設地域の産業発展と消費市場の形成が、地元の関連産業を直接に発展させた。多くの雇用機会を作り上げ、西部経済の発展に大きなチャンスをもたらしたのだ。

 タリム油田の責任者によれば、タリム盆地で探知した天然ガスの埋蔵量は、西気東輸プロジェクトで年間200億立方メートル、安定供給30年以上を確保できる。また、西気東輸プロジェクトは今年10月、全面的に操業し、来年一月に全面的な営業供給が実現するということだった。