祭りの歳時記 @
               丘桓興=文 魯忠民=写真  
   
 
 
 

春節はもともと、四千年前の夏王朝の時代に始まった夏暦の正月元旦のことである。辛亥革命後の1912年、中国は太陽暦を採用し、1月1日を元日として新年の始まりとすると同時に、陰暦の1月元日を春節と定めた。

吉林省の農村では、ヤンコ踊りで年始回りをする

 春節は、中国では一年中でもっとも盛大で、にぎやかな祝日である。休みの期間は、法定休暇の3日間に前後の土、日曜を振り替えて加え、合計7日間の連休とする。

 農村では、春節前後の一カ月ほど賑やか日々が続く。春節の十数日前から、どの家も年越しの支度にとりかかる。部屋を掃除し、新しい服を縫い、正月用品を買い、年ガオ(もち菓子)を蒸し、鶏やアヒルをさばき、春聯(新年を祝う対句を書いた聯)や年画(正月らしいめでたい絵)を貼る。中国・東北地方の農家では、さらに松の枝で玄関を飾ったり、赤い提灯を掛けたりする。

 中国の人々は、大晦日の夜に、一家全員が集まっていっしょに食事をする。これを「団円飯」と言い、とても重視されている。地方で仕事をしている人々も、大晦日には帰ってくる。年越し食事を「年夜飯」とも言い、それを食べてから、寝ずに新年を迎えるのだ。近ごろは、テレビで放映される「春節の夕べ」を観ながら、ギョーザを包むといった家庭が多くなった。

爆竹鳴らして邪を払う

 年が明けると、子どもたちはさっそく庭にかけだして、爆竹を鳴らし、花火を上げる。たちまち爆竹の音があたり一面に鳴り響き、打ち上げられた花火が、夜空を色とりどりに美しく照らし出す。

 新しい年を迎えて爆竹を鳴かすことを「開門砲仗」という。「砲仗」は爆竹のことで、この風習は、もとは庭で火を焚いて邪気を払ったことに始まる。その後、竹を焼くとパンパンと音をたてて爆発し、それが雰囲気を盛り上げるので、新年に爆竹を鳴らすのが習俗になった。

春節を迎える前、どの家も門口に対聯や「福」の字を貼る

 後に火薬が発明され、火薬を使った「鞭砲」が作られるようになったが、これも依然として「爆竹」と呼ばれている。「爆竹一声 旧歳を除く」と言われ、爆竹を鳴らすのは旧年を送り、新年を迎える象徴になった。

 爆竹を鳴らし終わると、農家では、年長者が庭に出て、暦書が示す吉の方角に向かって香を焚いて礼拝し、天より再び人間界に帰ってくる竃の神や諸々の神をお迎えして、今年も神のご加護で五穀豊穣、家庭安泰であるよう祈るのだ。その後すぐ、広間に戻り、先祖の位牌を置く長い台の上にお供え物を並べ、香を焚き、礼拝して、先祖に福を賜うよう願うのである。

 神を迎え、先祖を祭るのは、中華民族が天地を崇拝し、先祖をしのぶ伝統的な考えを反映している。海外に居留する多くの華僑や華人は、新しい年を迎える際にも先祖を祭る。それは自分たちの根源である祖先を忘れないためだ。

 近年、中国南方に住む人々は、よく道教の道観や仏教の寺院に行き、神仏を拝むが、新年を迎えて最初の線香を立てることを吉としている。

ギョーザで占う今年の運勢

先祖を祭ることは、春節の大切な家庭内の行事である

 新年を迎えるとすぐ、一家の主婦は熱々のギョーザを持って来る。一家がみな集まって、「更歳餃子」という「年越しギョーザ」を食べる。これは、中国北方の習慣だ。貧しかった昔は、「ギョーザほどうまいものはない」とよく言ったものだ。小麦粉の生地を麺棒で、茶碗の口くらいの大きさに皮を薄くのばし、中に餡を入れ、半月状のギョーザを作り、それを熱湯の入った鍋で茹でればでき上がり。

 面白いのは、「年越しギョーザ」を作る時に、一、二枚の、きれいに洗った硬貨やキャンデー、ピーナッツをギョーザの中に入れることだ。こうすると、硬貨の入ったギョーザを食べた人は、大喜びでこう叫ぶ。「お金だ。私はお金を食べたよ」。この人は今年、きっとお金がもうかるだろう。

 キャンデーの入ったギョーザに当たれば、飴のように甘い毎日を過すことができるし、中国語で「花生」とか「長生果」というピーナツに当たれば、長生きするという意味が込められている。

 地方によって、年越しの食べ物もそれぞれ違う。南方には、簇飩を食べる習慣がある。また、「湯円(もち米の粉で作るダンゴ状の食品)」を食べるところもある。「湯円」は、一家団欒の瑞兆である。また麺を食べるところもある。麺のように長い長寿を祈るのだ。広東省の客家の中には、旧暦の正月元日に斎(精進料理)を食べるところもある。「斎」と「災」とは発音が近いことから、「災」を食べてしまえばこの一年は平安だという意味だ。

 新年に酒を飲んで互いに祝う習慣も欠かせない。以前は屠蘇酒と柏酒を飲んだ。コノテガシワの葉を浸した酒を飲むのは、雄大な柏の老木のように長寿であるよう願うためである。

 ビャクジュツ、桔梗、山椒、ボウフウ、ニッケイ、大黄などの漢方の薬材を漬け込んで造った屠蘇酒は、唐代の名医の孫思裙が考案したと伝えられる。この屠蘇酒を飲めば、この一年、無病息災と人々は信じた。

人情こもった年始回り

縁日で売られている「茶湯」は、北京の代表的な「小吃」である

 年始の挨拶回りは、中国全土でもっとも普遍的に行われている祭日の儀礼の風俗である。春節前に、早めに年始回りをする「拝早年」や、正月の15日までに行う「拝晩年」など、さまざまな年始回りの形がある。

 しかし、人々がもっとも重視するのは、新年になってすぐに行う年始回りである。北方の農家では、年長者たちがオンドルの上に端座し、子や孫たちから年賀の礼を受ける。年賀の礼を受けるとすぐ、赤い紙で包まれた「圧歳銭(お年玉)」をとり出して、子どもたちに配る。

 「圧歳銭」は、金額の多少にかかわらず、これから一年間、不吉なことを「圧」してしまうという意味がある。

 春節の期間中、人々は親類や友人、同僚の家を回って年始の挨拶をし、互いに祭日を祝い合う。しかし、一軒一軒に参上して挨拶するのは、身体が二つあっても足りない。特に遠く離れた地方にいる人に対しては、訪ねて挨拶することができない。そこで宋の時代には、「名帖」(名刺)を送って新年を祝うようになった。当時はそれを「送飛帖」とか「送門状」とか言った。これがたぶん、最初の年賀状であろう。

 現在、中国では、近代的なものと伝統的なものが並存している。たとえば、昔ながらの「秧歌」(ヤンコ踊り)で新年を祝うのは、依然として北方の農村部で盛んに行われている。昔ながらの芝居の衣装を着た踊り手たちは、色とりどりの扇子や絹の布を手に、ヤンコを踊り、「旱船舞」(船の形を着けての踊り)を舞い、また1メートルほどの棒を足の下にくくりつけた「高脚踊り」を踊りながら村に入ってくる。

 農家の庭に入って演ずるときは、歌い手が即興で歌を作って、主人に新年の挨拶をする。

縁日の屋台で売っている「小吃」(軽食)の中で、「年ガオ」は欠かせない。「ガオ」と「高」とは発音が同じで、「年々昇進すること」を祈念する

 「太鼓を打てば わっはっは
 家禽も家畜もよく育ち
 あっちに鶏 こっちに鵞鳥
 荷車いっぱい馬蹄銀……」

 このように、田舎の人情と土臭い匂いのするヤンコの年始回りは、村の祭日の娯楽でもあり、また村民自身がヤンコを踊りながら他の村を回るので、村と村の間の友好関係が深まる。

 南方には、獅子舞いの年始回りがあり、これもまた独特の趣がある。獅子舞いの一行が来ると、主人側はさっそく、爆竹を鳴らして出迎える。そして門口や台所で踊るよう求め、これによって邪気を払い、吉祥を取り込む。また、新婚夫婦は獅子に、ベッドの上を転げ回って踊ってほしいと頼み、子宝が授かるよう願うのだ。

 獅子舞いの一行が家を立ち去るときには、慣例によって主人側は、タバコとか、年ガオか、「紅包」(ご祝儀)とかで謝礼する。「紅包」を木の枝に付け、店の門の上に掲げて置き、獅子に高いところへ登って口でそれを取らせる店もある。

 昔の春節では、縁日に出かけたり、神仏に線香を供えて拝んだり、買い物をしたり、遊びに出かけたりしたものだ。この20年ほどは、北京では毎年、白雲観や地壇公園などで、民俗色豊かな春節の縁日が催されている。人々はさまざまな民間の踊りや大道芸を観賞したり、「小吃」(軽食)を食べたりする。「氷糖葫芦」(サンザシを竹串に刺し、砂糖で固めた菓子)を手に持って、凧揚げなどして遊ぶ子どもたちの顔は、生き生きと輝いている。

福は内 鬼は外

縁日での獅子舞い

 旧暦正月の2日目は、親戚や友人を訪ねる日だ。新郎新婦は必ず新婦の実家に里帰りをし、新郎は年始の挨拶をして、舅や姑と婿との良い関係を深める。しかし、新郎新婦は、その日の内に必ず帰らなければならない。というのは、翌日、つまり3日がいわゆる「窮鬼(貧乏神)の日」に当たるからである。

 3日は、貧乏神が家の中に入って来るのを避けるため、みな、よその家へ遊びに行かず、客も接待しない。もし、そういう習慣をわきまえない客が家に来てしまったら、主人は、客を送り出した後、門口で爆竹を鳴らし、貧乏神を退散させなければならない。

 昔は、旧暦の元日と2日の2日間は、掃除をしてはならなかった。それは、金運や吉祥を掃き出してしまうからである。だから多くの家では、箒を隠してしまう。

 3日になると、家々は掃除をするが、門口から奥に向かって掃いていかなければならない。それは金運を家の中に引き入れることを象徴している。

 現在、人々は「窮鬼」のような迷信をもはや信じなくなった。これと同じように、正月5日までは鋏を使ってはいけないとか、針仕事をしないとか、病気になっても病院へは行かないなどのタブーは、社会の進歩に連れて消えていった。

七日は人のための日

伝統的な北京の大道芸「拉洋片(のぞきからくり)」は、いまでも縁日で見かける

 昔の人は、旧正月の元日から8日目までを、元日は鶏の日、2日は犬の日、3日は豚の日、4日は羊の日、5日は牛の日、6日は馬の日、7日は人の日、8日は穀物の日という順で呼んだ。

 だから、元日は鶏の絵を門に貼り、吉祥を迎える。7日の人の日には、女性は色紙で人の形を鋏で切って作り、髪に挿したり、屏風に貼ったりして、美と平安を祈る。またこの日には、セリ、ホウレンソウ、ネギ、ニンニクの若芽などの七種類の青菜を鍋で炒め、「七菜羹」(七草粥のようなもの)を作って食べ、病気に罹らないよう、また幸福がやって来るよう祈るのだ。

 日本には、平安時代にこの習慣が中国から伝わった。最初は宮廷の貴族の間で、後には民間に広まった。今日でも、正月7日に七草粥を食べる習慣が残っている。

 また7日は、人のための日なので、当然、人間に対しても仁愛を施さなければならない。だから、昔はこの日、皇帝が盛大な宴席を設けて、群臣を歓待した。さらに役所も刑務所も、犯人に責め道具を使うことはできなかった。

 東北地方では、人の日の7日に、長寿のお年寄りを祝う宴会を開く。広東省中山市では、1988年から毎年、人の日に、市を挙げて「慈善万人行」というイベントを展開する。各界の人々が一斉に街を歩きながら、公益事業へ寄付をし、キャンペーンを繰り広げる。

 8日は仕事始め。しかし、春節の気分はなお濃厚で、その上、農作業もまだ忙しくない。そこで正月の15日の夜、再び心ゆくまで楽しむ。これが、次回に紹介する「元宵節」である。

 
   
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