遣唐使の歴史 ぬりかえる墓誌発見
 
                                                高原

 8世紀前半に日本から遣唐使として唐の都・長安(現在の西安市)に渡った日本人留学生「井真成」の墓誌が昨年10月、中国の西安で発見された。同市の西北大学が発表したもので、遣唐使の実態を伝える史料が中国で発見されたのは初めて。墓誌の銘文には「国号日本」と記されており、国号「日本」が使われた最古の文字史料と考えられている。

 しかし墓誌は一体どこから出土したのか、井真成とは何者なのか、明確な答えはいまだに明らかになっていない。そうした中で、この墓誌の研究に携わっている西北大学文博学院の王建新教授に、これまでの調査研究で明らかになったことなどについてうかがった。

ビルが建つ発掘現場

貴重な文物を目にして驚く、平山郁夫日中友好協会会長(写真提供・博文)

 王教授によれば、この墓誌は西北大学博物館に勤める賈氏が、偶然にも収集したものだった。それは、西安の東郊外を流れる 水と螻水にはさまれた地帯で発見された。ある建設工事現場で、パワーショベルによって地下から掘り出されたのだという。墓誌の表面には、その際についたショベルのあとが残っている。しかし、一体どの工事現場から出土したのか、いつ掘り出されたものなのか、考証作業はきわめて難しくなっている。

 この点について、王教授は無念さを隠しきれないようすで話してくれた。

 「じつに残念に思うのは、この墓誌が科学的に発掘されたものではないことです。もし科学的調査が行われていれば、埋葬の形や構造、人骨までもが発見されたかもしれません。西安の東郊外一帯は、唐代の墓が多く埋没しているところ。そこでは、より多くの関連遺跡が発見される可能性があります。しかし、もはやビルが建ち始めている。発掘する手がかりが、なくなってしまったのです」

 市の東郊外は現在、多数の住宅地区に覆われている。多くの工事現場で、忙しく作業が進められているところだ。規定によれば、工事現場では起工前にかならず考古学的見地からボーリング調査を行い、発掘しなければならない。しかし、遣唐使の墓誌が出土したこの工事現場では、実地調査が行われなかった。それだけに悔やまれるのである。この地区で新たな発掘をするには関係機関と協議を行い、希望が受け入れられれば、改めて調査が進められるということだ。

「尚衣奉御」の位を賜る

墓誌に記された銘文「贈尚衣奉御井府君墓誌之銘(井府君に尚衣奉御を贈る墓誌の銘)」(写真提供・博文)

 墓誌の記載によれば、墓に葬られた人物は井真成といい、死後に皇帝から「尚衣奉御」(尚衣局の責任者)の位を授けられた。また、国の特別なはからいで埋葬されたという。それは相当な待遇であった。「尚衣奉御」は、皇帝の近くに仕える従五品上の役職であるが、歴代は皇帝の親族がその任に当たっていた。たとえば、唐の太宗皇帝のときは新城内親王(皇女)の婿が、唐の高宗皇帝のときは皇后の兄がそうであった。井真成に贈られた高官の役職からは、当時の玄宗皇帝が彼をきわめて重視していたことがわかる。そしてまた彼も、非常に有能な人材であった。

 しかし、別の角度から見れば、井真成への待遇はそれほど不可思議な「厚遇」ではなかったとも考えられる。当時、井真成のような日本人留学生の多くは貴族の出で、その手当ても一般の随行官員より、かなりの高額であった。中国においても皇帝がよく賞与や官邸の住まいを与え、その待遇もかなりのものだったという。

 また、唐王朝は中国史上まれに見る王朝で、国力があり、非常に開放的だった。他民族や外国人が多数いて、日本人ばかりか突厥、朝鮮、中央アジアの人々なども見られた。多くが高官であっただけでなく、いずれも実権を持っていた。

 たとえば、阿倍仲麻呂は、最後に「安南都督」というベトナム地区駐在の長官に任じられた。また、唐代中期(8世紀半ば)に「安史の乱」を起こした安禄山、史思明は、節度使(唐代の軍職、傭兵からなる辺境防衛軍団の総司令官)という、ひとかどの諸侯であった。

早世して名を残さず

西北大学文博学院の王建新教授(写真・高原)

 墓誌の序言で考えられるのは、井真成が阿倍仲麻呂と同じコースを歩んでいた可能性が高い、ということ。さらに、井真成の役職は死亡時に従五品上、阿倍仲麻呂は従五品下であった。つまり、井真成は少なくとも同期留学生の吉備真備、玄ム、阿倍仲麻呂などと同様に優秀な人物だったと推測される。ただ、若くして亡くなったために、それ以上の大きな貢献をすることはできなかった。歴史にその名を留めなかったのである。

 じっさい遣唐使のなかで、その名を残した人はきわめて少ない。このほかにも無名の日本人留学生や留学僧が数多くいて、身の危険をおかしてまでも中国へ学びに来たのだ。史料によれば当時、日本から船で中国に渡るには、少なくとも八カ月がかかった。海難事故が頻繁に起こり、肺炎やチフスなどの熱病も流行した。ある者は船とともに遭難し、またある者は上陸とともに亡くなった。浙江、福建などの一帯だったと考えられるが、たとえそうであっても遣唐使たちは次々とやってきて、最新の中国文化を日本へと持ち帰ったのである。

 王建新教授は、こう語っている。

 「今回、井真成の墓誌を発見して、ようやくこのような人物の存在を知りました。それはじつに偶然で、もしこの墓誌が見つからなければ、彼もまた大多数の名もない留学生の一人にすぎなかった。そして我々の歴史研究上、さらに重要なのは、著名な人物や大人物からこれら無名の『一般人』に目を向けさせたことなのです」


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