木と石と水が語る北京A   歴史学者 阿南・ヴァージニア・史代=文・写真

北京の古い石の村
 
 

個性のある村々 

延慶県古崖居

 北京のどの村にもそれぞれ歴史と特徴がある。石炭採掘や商売で始まった村もあれば、生活のために石を切り出し、薪を売った村もある。宿場もあれば、墓守の村もあり、山や川や運河の渡し場を守る村もあった。

 また村は、交通の頻繁な道路沿いや、参詣路沿いの著名な寺院や茶店の周囲に発展していった。勅命により要塞建設や、陶磁器・瓦の生産地として造られた村もある。首都を囲む田園地帯の多様性は、地理的風景の多様性だけではなく、北京の歴史においてこうした小集落が持っていた重要性をも反映している。

 村人たちは一貫して共同体を存続させている。彼らは村の物語を伝承し、口伝として次世代へ伝える。また家々を建て、あるいは建て替え、手工芸品や特殊な暮らしぶりを永く続けてきた。井戸掘り、道路修理、村の聖地の樹木保護などに見られる協調の伝統が、共同体の核となっている。

 建築資材として石が圧倒的に多かったので、ほとんどの村は古くからの家屋配置を残している。山岳地帯では、門頭溝区の爨底下村や霊水村に見られるように、五百年を超えた石造りの家や壁がある。そこからほど遠からぬ双石頭村には、巨岩の上に建てられた家まで残っている。

 1996年に爨底下村の狭い石の路地を歩いたとき、たった23所帯しか残っていない村であったが、明・清時代からの村落構造を残していた。往時は百所帯以上の多くが石炭売買に携わっていたという。見捨てられた中庭をのぞくのは奇妙な体験だった。ほとんどの家が韓という苗字だったから、韓さんが案内してくれても驚くには当たらない。

 彼は地下の食糧貯蔵庫、深い井戸、現金を隠す秘密の部屋、400年以上も使われている研削用砥石などを見せてくれた。色あせた「文革」スローガンは、彼自身紅衛兵として村の廟の打ち壊しに加担したことを思い起こさせた。「文革」以来、他所に仕事を求めて村を脱出する人が続き、村全体が時の中に凍りついていた。

 北京最古の石の住居は、延慶県の古崖居と考えられている。そこには、山の斜面に百ばかりの小さな洞穴があり、集会所や祠を備えた原初の町を形成していた。石柱や石の炉が残っているが、穴居住人についてはあまり知られていない。しかし彼らには、階級制度があり、侵入者に対する自衛組織を備えるなど、社会的機構を保持していたことが見てとれる。

 房山区の磨碑村の歴史も長い。ここは、かの有名な雲居寺の石刻経文のために石が切り出され、千年以上もの間多くの人が石刻に携わった村である。村の中心に、数代にわたる石工たちに捧げた「磨碑人記念祠」があるが、今は見捨てられている。1997年にはお堂がたった一つ残り、それも屋根に穴が開いていた。境内は工場となり、職人たちが石の瓦を磨いたり色付けしたりしていた。石切場は今でも豊富に石を切り出しているようだ。

 かつての石刻職人の一人である張さん(80歳)は、ここの特産「白雲石」を自慢した。その石は透明に近く自然の光沢があるという。そして、彼は自分たちの技と多くの名も無い職人たちを祀る祠を持つのは当然であり、今ある祠を修復すべきだと考えていた。旧暦2月19日の村の例祭には、石を彫る伝統が讃えられていたものだと、彼は追憶をこめて語った。

 北京の真西に黒石頭(岩)村という村があり、私は何度も訪れたことがある。最後に行ったのは2003年春、北京でSARS警報が出される前日だった。まだのん気な朝で、私は石景山区のあたりに友人を連れて車で遠足に出かけた。探索の仲間たちは、北京市街区からこんなに近い場所に、これほど保存のよい石の村があることに驚いていた。

 スレート葺きの古い家並みや槐の老樹の多くは三本の村道――上道、中道、下道に面していた。西山を越えて水庫(貯水池)に向かう道沿いにある黒石頭村は、やはり石炭の貯蔵所だった。

 若い男の子が自転車に飛び乗って私たちを巨石まで案内してくれた。岩は、傍らに停めた赤い小型トラックの三倍もの高さがあった。これが「黒石頭(岩)」だった。これほどの巨岩が露出していれば、確かに昔の住民に対して強烈な印象を与えたに違いない。これをおいてこの村に他の名前が付けられようか?

 今日、村々やその伝統文化は生き残りをかけた課題に直面している。しかし、石の構造物が残っているかぎり、少なくともその外観は過去の印象をとどめ続けるだろう。

壁を巡らせた聖域への道

門頭溝区太平荘

 以前、田舎道をドライブしていて、大きな円を描いた高さ8メートルぐらいの石壁が眼にとまった。何だろう? 永定河の西の平原に、こんなものがそそり立っているとは信じられなかった。それが常楽寺だった。

 常楽寺は明代創建の寺とされ、かつて引退した宦官たちが僧侶となって共同で暮らしていた。東の石門には、彼ら宮廷の宦官たちを讃える対聯の半分が残っていた。「純忠万祀名 永(純粋なる忠義とこしえに変わらず、名声は永遠なれ)」とあった。

 退職した門番、張会順さんが私の案内役を買って出てくれた。寺院の本堂はまだ建ってはいたが、かなりひどい状態だった。壊れた石碑の一つに、引退した宦官たちがどのようにしてこの寺に来て余生を過ごしたか、また同じ壁に囲まれた敷地内の墓地にどのように埋葬されたかが記されていた。張さんは村の北側へ敷石道を進んだ。

 壊れた丸屋根の磚石の墓が二つ、生い茂った雑草と柿の木の間に埋もれていた。村の子供たちが、壊れた丸天井の中で眠っているコウモリを突ついていた。これだけがかつての太監の墓地の名残だった。一つは「宮廷における随員ならびに礼服管理職にあった」太監大官・王安の墓だった。高さ3メートルの霊廟を覆う大理石のほとんどは剥落して、内部の磚がむき出しになっていた。それでも美しく彫った石の屋根と瓦の模様の一部が残っていて、今も外側を飾っていた。

 その背後に、壁は広く弧を描いていたが、かなたに大きく浮かび上がっている峰々のため、実際より小さく見えた。壁に都合よく割れ目があったので、そこから別の道をたどって村へ行くことができた。遠くから眺めると、この光景は500年前と少しも変わらぬようだった。そう、ここは壁に囲まれた特別の宦官聖域だ!(訳・小池晴子)

 五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より

 

 
 
     
 
筆者紹介
阿南・ヴァージニア・史代 1944年米国に生まれ、1970年日本国籍取得、正式名は阿南史代。外交官の夫、阿南惟茂氏(現駐中国日本大使)と2人の子どもと共に日本、パキスタン、オーストラリア、中国、米国に居住した。アジア学(東アジア史・地理学専攻)によって学士号・修士号取得。20余年にわたり北京全域の史跡、古い集落、老樹、聖地遺跡を調査し、写真に収めてきた。写真展への出品は日本、中国で8回におよぶ。
 

  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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