必要最低限の家具

明・清代のアンティーク家具の商売と模造品の製作について話が及ぶと、趙暁貝さんはとうとうと語りだした

 「高碑店明清家具街」は、数年前に自然と形成された明・清代のアンティーク家具を扱う専門の商店街。北京市の東部にあり、北京でその名を知らない人はいないほど有名だ。この商店街の創始者である趙暁貝さん(55歳)の店「魯班明清古典家具城」もその中にある。

 趙さんは、20年以上アンティーク家具の商売に携わってきた。「両親はともに工場労働者で、私は5人兄弟の一番上でした。16歳のときに工場で木工を習ったのです。中卒でしたが、まじめに熱心に仕事をし、腕を磨きました。しかし、工場には修繕の仕事しかなかったため、給料は非常に低かったのです」仕事を始めた当時のことをこう振り返る。

 家計の足しにするため、空いている時間には、友人から紹介された国営の信託会社で古い家具を修理してお金を稼いだ。その後、自分で古い家具を買い付け、それを修理して信託会社に売った。しかしこのような方法は、当時はまだ許可されていなかったので批判された。

「高碑店明清家具街」の長さは1500メートルで、アンティーク家具を扱う店が216軒ある

 当時のアンティーク家具は、すべて友誼商店か工芸品の会社に売られ、そこを通して外国人に販売されていた。後に、個人の経営も認められるようになった。趙さんの顧客は依然として外国人が多く、アンティーク家具に手を出す中国人はまだ少なかった。

 「文革」の動乱を経たため、当時の中国人にとって、アンティーク家具は「封建時代のなごり」で批判の対象という意識があった。そこで、誰もお金を払って買おうとはしなかった。また、生活水準も低かったため、一般の家庭にとって、アンティーク家具はもちろんのこと、普通の家具でさえも贅沢品だった。使われていたベッド、机、椅子、タンスなどの家具は、先祖代々伝わってきたもののほか、職場でいらなくなった事務的なものであった。

 私が子どもの頃、我が家のベッドや机にはすべて小さな鉄の札がついていて、そこには父親の職場の名前や番号が書かれており、不思議に思っていた。後になって、近所の家の家具にもこのような鉄の札があることを知り、これらの家具はすべて職場のものであったことがわかった。

 1970年代初めは、物不足や計画経済体制の制限により、お金があっても家具を買うことが難しかった。家具店は少なく、店内の家具も非常に少なかった。ある時期には、結婚証を提示しなければ家具を買えなかった。

 趙さんが当時、アンティーク家具を買い付けたり修理したりするのも、お金を稼いで家族を養うためだけだった。彼の家の家具も他の一般家庭と同じで、必要最低限のものしかなかった。

家具の移り変わり

趙暁貝さんの商売はますます繁盛し、国内外からの注文が絶えない

 改革開放後、生活の中にあったたくさんの制限が、次第になくなっていった。お金を稼ぐ方法もさまざまになり、きゅうきゅうとした暮らしに変化が現れた。絶え間ない「政治運動」から離れ、自分の生活環境を作るゆとりを持ち始めた。

 都市では、農村からやってきた出稼ぎ労働者の姿が目に付くようになった。特に簡単な工具を持った大工業が歓迎され、彼らは街中や路地で住民のために家具の修理などを行った。

 出稼ぎの大工たちは、十日から半月ほど同じ場所に滞在し、こちらの家ではタンスを直し、あちらの家ではテーブルを造りと、順番待ちが出るほど仕事が多かった。人々は少しずつ古い家具を直し、新しい家具を購入し始めた。

「華倫古典家具店」は高碑店明清家具街の中でも規模が大きな

 1970年代終わりには、中国人の家庭にも簡易ソファーが現れる。一般にはまだ、映画などの中でだけ見る贅沢品だったが、社会の開放につれ、あっという間に流行った。

 簡易ソファーというのは、脚が四本、肘掛が二つあって、座面や背もたれにスプリングを埋め込み、綿を入れてクッションを効かせ、その上に布を張ったもの。二つのソファーの間には、サイドテーブルを置く。このようなソファーセットで、家人は休んだり、おしゃべりをしたりする。お客が来たときも、立派に見えるし、ゆったりとくつろぐことができる。

 それからしばらくして、家具セットが現れた。新婚カップルにとって、新しい家具セットをそろえることが、最大の願いであった。クローゼット、ダブル・ベッド、事務机など、すべて四本の脚がある形のものなので、家具の多さを「36本の脚」「48本の脚」というふうに形容した。「脚」が多ければ多いほど、その家の経済条件はよいということだ。

家具店には種類豊富な家具が並び、まばゆさに目がくらむ

 このときから、一般の人々もゆとりある生活と美しい家具を求めるようになった。それは分不相応な考えではなく、当たり前の要求となった。

 しかし、住居条件は依然として苦しく、生活空間も狭かったので、追求にも限りがあった。そして1980年代半ばに、「組み合わせ棚」と呼ばれるものが現れた。

 これは3〜5個の棚を組み合わせた家具で、天井につくほど高く、壁一面を覆ってしまうほど大きい。非常に機能的で、衣服をかける場所や、たくさんの引き出し、しきりがあり、上置きには布団をしまうこともできる。他にも、本や酒を収納でき、テレビ・ラックにもなる。

 この新しい形と収納力の大きさに人々は殺到したが、流行った期間は短かった。置く場所が固定され、適当に動かすことができないし、自由に解体することができない不便さにすぐ気が付いたからだ。このような固定的な形では、絶え間なく新しい生活を追求する当時の人々を満足させることができなかった。

姚春根さんが経営するアンティーク家具を模造する工場には、安徽、浙江、山西、広東などの各省からやってきた優秀な大工たちが働いている。これらの家具は、本物に比べると値段がずっと安い

 1990年代初め、北京で初めてルーマニア家具展が開催された。押し合いへし合いの大盛況で、そのセンセーショナルな場面は、まだ記憶に新しい。多くの人は、このとき初めて組み立て式のヨーロッパ家具のスタイルを知った。

 1990年代半ば以降、中国は伝統的な住宅制度の改革を始めた。庶民の住宅条件も少しずつ改善され、古い平屋から新しいマンションへと移り住むようになった。今までは三世代で一部屋に住んでいたのが、三LDKの現代的な住宅に住むようになり、まず考えたのは、新しい家具で新居を飾ることだった。

家具は自己表現の一つ

孫鶴さんは自分の家をぬくもりと個性があるように仕上げている

 広告会社に勤める孫鶴さん。彼女は、昨年家を改装したときに、家具もすべて新しくした。前の家具は1995年に買ったもので、もう流行おくれだったからだ。

 若い人々にとって、家具は丈夫さが第一で、代々伝えることが大切という考え方は、過去のものとなっている。最も重要なのはそのデザイン、色、流行のスタイルだ。

 かつて一度、みんなが流行に乗って家具を購入した時期があった。特に若い新婚カップルは、新居に必ず流行の家具を買った。濃い色が流行っていると、部屋の大きさに関係なく、濃い色の家具を一式置いた。明るい色が流行っていると、どこの新居の家具もクリーム色や白色になった。

 現在では、このようなことは少なくなった。個性を大切にし、どのように自分の家の独自性を出すかに心を配る。

 孫さんは家具選びの際、明るい色でヨーロッパ風のもの、と自分の好みを大切にした。さらに、自分の家の面積や機能・構造なども考慮して、それに適した家具を購入した。あるメーカーの家具セットではなく、いくつかのメーカーから同じような雰囲気の家具を好きなように組み合わせた。これらの家具を書斎、寝室、客間に配置し、トータルのバランスを統一して、それぞれの細かい特徴でぬくもりと上品さが出るように仕上げた。

 現在は、家具を選ぶ際、ますます理性的になっている。経済条件が良くなったので、家具を購入する周期が短くなった。家具の材料が環境にやさしいかどうかを気にしたり、家の全体的なインテリア性を重視したりする。また、信頼できて行き届いたアフターサービスがあるかどうかにも気を配る。

 家具の個性化への要求と需要の増加で、中国の家具産業は十数年で飛躍的に発展した。都市のあちらこちらで見かけることができる数万平方メートルの規模のさまざまな家具店からも、家具市場の繁栄を窺い知ることができる。

1970年代末から1980年代初めの都市住民の一般的な家具は、(写真左から順に)クローゼット、整理ダンス、机、椅子だった

 また、たくさんの国外の家具ブランドも中国市場に進出し始めた。ヨーロッパのアンティーク調、北欧のシンプルなもの、イタリアのポスト・モダン調、アメリカのカントリー調など、どのようなスタイルのものでも中国の市場にそろっている。さまざまな文化、流派、風格の家具がそれぞれの魅力を十分に表している。天然木材を組み立て式や弓形に加工したり、ガラスや金属などさまざまな材料を利用したりして、多彩な家具を生み出している。

 中国人は、国外の家具のデザインや材料に新鮮さを感じただけではなく、家具を設計するときに現れる利用者への気遣いと配慮を知った。ソファーや椅子を設計するときは人体の高さや曲線が考慮され、引き出しの取っ手の握り心地や、戸棚の中の照明灯など、細部に至るまで考え尽くされ、そのことは中国人に深い感銘を与えた。

 世界的に有名なIKEAは、中国に進出して以来、若い人たちに大人気の家具店である。週末になると、店内は人でごった返す。買い物に来るのではなく、住居のインテリアや生活方式、家具のデザインの細部を見に来る人も少なくない。自分の生活の参考にするのだ。

古典と現代生活の融合

家具選びは個性やインテリア性が重視され、特に子ども部屋には明るく元気な色のものを選び、子どもたちに夢のある空間を与える

 家具は単なる生活必需品ではなくなった。家具によって自分の文化教養を表現し、生活環境を作るようになった。

 孫鶴さんは、現在の自分の家具に満足はしているものの、新しい考えもある。「明・清代の細長いテーブルやサイドテーブルなど、中国式のアンティーク家具を一つか二つ増やそうと考えています。そうすればこのヨーロッパ調の部屋に趣を添え、別の風情が出てくるでしょう」。彼女は自分のセンスに自信を持っている。「もしすべての家具をアンティーク調に変えてしまったら、重すぎて圧迫感があります。適当に引き立たせるくらいがちょうど良いのです」。

 孫さんに限らず、アンティーク家具に関心を持つ人がますます増えてきた。30年前には誰も見向きもしなかった古い骨董が、現在ではオシャレなものとなっている。

 趙暁貝さんの店の客は、1995年までは外国人が多かったが、その後、中国人が増えてきているという。開店した頃は、コレクションにするための客が多かったが、最近は普通の人々が買いにやって来る。

 趙さんと同じ通りで商売をしている江西省出身の姚春根さんは、「1997年に北京にやってきてアンティーク家具の商売を始めました。売り上げはますます良くなっています。現在は、アンティーク風の装飾も引き受けています。始めはホテルや茶芸館にアンティーク風の木彫りの門や窓、テーブルや椅子などを造っていましたが、今では一般の人々もアンティーク家具を好むばかりでなく、家の内装もアンティーク風にしたいと考えているので、この仕事は上手くいっています」と話す。

 アンティーク家具の価格上昇は非常に激しい。そこで、一般の人々の需要に応えるために、アンティーク家具を模造し始めた家具店も少なくない。

 趙さんの娘さんは、趙さんの店の向かい側に店を開いている。アンティーク家具の模造品を専門的に扱う。店内には、アンティーク風の家具が現代的な装飾品とコーディネートして置かれ、趣を出している。

1980年代半ば、都市では自分でデザイン、製作する組み合わせ棚が流行した

 趙さんはアンティーク家具の模造品について「彼女たちは、すべて自分たちでデザインして造っています。現代人の生活の需要に合わせ、細部を変えるのです。たとえば、伝統的な正方形、円形の食卓を西洋式の長方形に変え、明・清調の背もたれがある椅子六脚と組み合わせる。古風で素朴でありながら生活に合った快適さも兼ね備えています」と話す。

 明・清調に造られた棚には、ワインを収納するひし形の格子もデザインされていて、古典的な趣と現代生活が完璧に一体化されている。これこそが、現在の人々が追い求めている生活のかたちなのだ。



 ▽ 中国の家具産業は10年の急速な発展を経て、家具生産及び輸出において世界的な大国の一つとなった。2003年、全国の家具生産総額は2040億元、輸出総額は73億米ドル。

 ▽ 建設部の資料によると、住居条件を改善するために、毎年建築面積が約12億平方メートルに及ぶ1000万世帯の住宅を建設している。これが家具産業の発展を促す基礎となっている。

 ▽ 2005年1月1日、中国の輸入家具はゼロ関税を実施。多くの国の企業が中国の市場に進出し始めた。2007年までに、IKEAは北京、上海、広州などの都市に10店舗、平均3万平方メートルの家具店を設立する予定。

 ▽ 現在、中国の一般の家庭にある家具は、ダブル・ベッド、クローゼット、事務机、ソファー、テレビ・ラック、本棚、ダイニング・テーブルなど。

近郊に建設された家具店は、国内外の高級な家具を取り扱い、都市住民の生活に彩りを添える

  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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