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秋瑾の子孫に自著を贈呈する筆者(右) |
浙江省紹興市の繁華街、軒亭口の道路を左右に分けるように、高さ10メートルほどのコンクリートの秋瑾烈士記念碑が立っている。1907年7月15日の夜明け前に、女性革命家秋瑾はこの碑の場所で衆人環視の中、斬首刑に処せられた。
午前3時に山陰県監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けたとき、動じる色もなく知県(県知事)の李宗嶽に訣別の遺書を書かせよ、袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)をするな、梟首(さらし首)をするな、と三つの要求をした。知県は時間がかかる遺書を除き、袒衣と梟首をせぬことを約束した。
この前日に、秋瑾は李宗嶽の取調べに対して『秋風秋雨愁ノキ人』(秋風秋雨人を愁殺す)と有名な絶唱を書き遺している。そのあとに代わった残忍な取調官が用意した火煉瓦、火鎖などの虐殺的拷問具を前にして、「革命党員は死を恐れない。殺したければ殺せ」と叫んだのみで、目を閉じ、歯を食いしばって遂に一言も吐かなかった。
翌暁に彼女の斬首刑を予定している官側は、衰弱死を恐れて拷問を打ちきり、贋造した供述書に力ずくで拇印を押させ、死刑宣告の体裁を作った。判決のあと直ちに、秋瑾は足に鎖枷をつけられ、腕は背後に縛り上げられて刑場に向かった。極度の疲労でよろめく死刑囚秋瑾を支えようとした護送兵に、彼女は一喝した。「自分で歩く! 手出し無用」。
暗黒の道の彼方から近づいてくる軒亭口刑場のたいまつの明かりを、秋瑾はまっすぐに見つめ、重い鉄鎖を引きずりながら、隊列の先頭を毅然として歩いた・・・。
書かなければならない
私がおぼろげに秋瑾を知ったのは、大多数の日本人がそうであるように、戦後文学を代表する作家の一人、武田泰淳の小説『秋風秋雨人を愁殺す(秋瑾女士伝)』からである。彼は魯迅の翻訳で有名な中国文学者竹内好と共に、中国を舞台とした多くの作品を書いた。
この作品は一九六七年に雑誌『展望』に連載され、六九年に第十九回芸術推奨文部大臣賞の対象になったが、武田は固辞して受けなかった。迫真の表現力で後進に大きな影響を与えたといわれるが、読者に中国近代史の知識があることが前提となっているような構成に、肝心の秋瑾についての事前知識がまったくなかった私は、人物と時間が前後に錯綜する複雑な記述についてゆけなかった。結局、漠然とした印象のまま、秋瑾は記憶の奥に埋没してしまった。
一九九九年の十一月に紹興の魯迅故居を訪れたとき、この静かな街に秋瑾の故居があったことをふと思い出して、次の機会には秋瑾故居を訪ねる気持ちになったのは、紹興という街の雰囲気がなせるわざだろう。二〇〇一年の秋に秋瑾故居を訪れて、和服姿で刀を構えた写真の前に立ったとき、私は何か大事なことを忘れていたような気持ちに襲われた。
崇高なまでの美貌、優れた詩才、それに論理的な弁論能力、彼女はこれらの天分のすべてを、纏足に象徴される閉塞された女性の社会的地位の開放と経済的自立の推進、そして異民族清朝打倒の革命のために捧げた。まさに無私の正義感の権化である。
単に目標を掲げるだけでなく、その実現手段のために夫、子供、そして家庭を棄て、わずかな所持品や衣類を売って日本に留学し、自ら学びながら同時に留学生たちを教育した。目的は女性の解放、漢民族による政権奪還(光復)、そして異民族清朝打倒の革命である。
女性の自立手段として、習ったばかりの日本の看護学の教科書を中国語に翻訳、彼女が発行人となった女性啓蒙雑誌『中国女報』に掲載した。留学から帰国後、浙江省を中心に革命活動を指導したが、時未だ至らず、彼女は清朝官憲に逮捕され、処刑された。
日本では秋瑾を知る人は極めて少ない。私は江蘇省蘇州市に縁者やビジネスのかかわりを持っていたので、秋瑾故居で購入した資料とあわせて、自分自身の手で新しい視点から秋瑾の伝記を書き上げることを志した。書かなければならない、困難や障害は山のようにあるが、とにかく書くことがこのような状況に恵まれた自分に課せられた義務だとさえ思った。
さらにこれを中国で中国語に翻訳し、二〇〇七年の秋瑾就義(義による刑死)百周年を期して中国で記念出版をする、この目標が、私の中に不思議な新しい力を与えてくれた。
改めて知る近代中国の群像
執筆の過程や参考文献を集める苦労話は本書の「あとがき」に述べているので、ここでは執筆によって、私自身が認識を新たにしたものについてお話したい。滅びかけた清国、新興の日本、この二つの国が生き残るための共通の手段としたものは、教育の改革であった。かつて中国と日本の間には、暗い戦いの記憶に覆われていた時代があったが、清末の一時期には国民教育の手段として万を超える清国留学生が東京を中心に各種の学校に学び、日本の政府も国策として留学生や中国の学校教育をバックアップした一時期があった。
しかし清国政府の思惑とは逆に、啓蒙によって自国の惨状に目覚めた留学生の多くは、体制打倒の革命に走った。彼らの指導者となった思想家たちがその勢いを促進する。
立憲君主制を主張する梁啓超らの維新変法派、これに対して清朝打倒を旗印とする孫文、黄興、陳天華、宋教仁、そして秋瑾が所属する浙江革命党の光復会の陶成章、徐錫麟など、綺羅星のような若い群雄がそれぞれの理念を掲げ、共通の目標である革命に向かって行動した。
圧政と侮蔑の象徴であった辮髪の下の頭脳から、現在でも感嘆すべき周到緻密な革命論が生み出され、実行された。彼らの平均年齢はほぼ三十歳前後で、革命派の多くは刑死、獄死、暗殺、自殺などでこの年代で最後を遂げている。彼らがもし十年生き延びて国政に関与していたとすれば、その後の中国はかなり異なった姿になったことだろう。
当時の日本の社会では、辮髪や風習、気質に否定的な違和感をもち、清国留学生らを侮蔑と偏見の目で嘲った。神経を病んでいた陳天華は留学生を「放縦卑劣」と罵倒した東京朝日新聞の記事に衝撃を受け、入水自殺した。
それから終戦まで、日本人の精神にはこのような意識が根を張り、私自身も影響を受けたことは否定できない。今回、『競雄女侠伝』を執筆した過程で、改めて近代中国の群像に畏敬の念を抱いたことを告白し、その代表として杭州西湖湖畔に眠る秋瑾烈士の墓前に、謹んで拙著を捧げたのであった。
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