【あの人 あの頃 あの話】B |
北京放送元副編集長 李順然
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歴史の語り継ぎ
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現代中日交流史の生き字引のような人がいた。中日友好協会の初代秘書長だった趙安博さん(1915〜1999年)である。 趙さんは、1934年に日本に留学し、第一高等学校(現在の東大教養学部)で学んだ。1937年に中日全面戦争が始まるとすぐに帰国し、中国共産党指導下の八路軍の120師団359旅団の対日本軍工作科の科長となる。 この359旅団が、日本の兵士も民衆だとして、日本の捕虜に馬と食糧を渡し、道案内までつけて釈放した話がある。趙さんはこれにも一役かったそうだ。ちなみに、この旅団の旅団長は、のちに中日友好協会の名誉会長となった王震将軍だった。 その後、趙さんは、中国革命の聖地である延安に移り、ここで日本労農学校の副校長となる。武器を捨てた日本の兵士に社会発展史などを教えたのだが、この学校の校長は、日本共産党元議長の野坂参三だった。 日本が降伏すると、趙さんは百万人の日本人居留民がいたという中国東北地方に飛び、ここの人民政府の日本人居留民管理委員会の副主任として活躍する。きびしい環境のなかで、日本人居留民の衣食住から就職、帰国などの世話に汗を流した。 東北地方の仕事が一段落したあと、趙さんは北京に来て、毛沢東主席が日本人と会うときの通訳をしたり、中日友好協会の初代秘書長を務めたり、文字通りその一生を中日友好の事業にささげた。 わたしが趙さんと親しくなったのは、1970年代に毛主席の著作などを日本語に翻訳する仕事を手伝っていたときからだ。趙さんは、このグループの顧問だった。趙さんもわたしも昼寝が苦手で、長い昼休みをもてあましていた。そこで趙さんは、昼休みによくわたしの部屋におしゃべりをしにきた。 その席で、わたしが「趙さん、中国共産党の指導者がよく『日本軍国主義と日本国民とを区別しなければならない。日本国民はわれわれの友だ』と言っていますが、いつごろからこうした言い方をするようになったのですか」とたずねたことがあった。 趙さんは「李君、あれは『言い方』じゃない。思想だよ」と前置きして、次のような話をした。 「中日全面戦争が始まった1937年のことだ。イギリスの記者、バートラムが延安を訪れ、毛主席にインタビューしたんだ。そのとき、毛主席は『日本の軍国主義者と日本の一般の民衆を区別すべきだ。中国の民衆と日本の民衆の利益は一致している。だから、われわれは日本の捕虜を寛大に取り扱い、釈放しているのだ』と語っているんだよ。毛主席のこの話は、『イギリスの記者、バートラムとの談話』というタイトルで『毛沢東選集』第2巻に収められている。毛さんの話は決して、便宜的なものではなく、一つの思想だと思うね。われわれは、あの戦争のときも、戦争が終わってからも、この思想に照らして日本との関係を処理してきたんだ。これからも、きっとそうしていくだろう」 いまのわたしは、この話をしてくれたときの趙さんよりも年寄りになっている。趙さんの語った「この思想」を、若い世代にぜひ語り伝えていきたいと思う。趙さんがわたしに話してくれたように……。 |
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