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天安門の東側、菖蒲河公園を流れる金水河 |
1980年代に初めて北京に住むことになった当時、私はここが運河を張り巡らした都市であるとは想像もしなかった。西山から湧き出る泉の水を飲んだこともなかった。当時は深い水源のほとんどが立入禁止区域内だった。運河はゴミなどが詰まって見分けもつかず、河の流れは汚れていて、名前を覚える気にもならなかった。
しかし、この都市の歴史と発展は、実は「水」をキーワードとして理解できる。私の場合、仏閣を調査したことから、それらと水との関連に焦点を当てて調査を進めることとなった。
北京は迫りくる砂漠化と闘い、さらに人口増加による水の需要の増大で、水資源の重要性が人々の大きな関心事となっている。遼代に北京が初めて首都となって以来、常に水問題がとりついて離れなかった。契丹から始まって、続く女真、蒙古、漢、満州、そして現代まで、北京の都市発達史全般を通じて、統治者たちは水資源の確保に腐心した。
かつて北京平原は、海がこの地域から後退したときに取り残された湿地帯で、幾筋もの河が豊かに流れていた。その分、過去に起きた洪水は大惨害を引き起こした。これが堤防を築き、水神の霊を鎮める寺廟を建てる機運を高めた。北京は「蓮花池」など天然の池のほとりに発達し、さらに高梁河の南部支流を拡張して市中心部に湖を造った。
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あまり知られていない北京の重要な水源のひとつである海淀区の紫竹院 |
石造りの送水路を利用して西山の主要な泉水と、北部にある白浮堰から水が吸いあげられ首都に運ばれた。泉水は珍重され、泉のそばに寺院や皇室の野営地などが築かれた。井戸もまた、どこにでも掘れることから重要視され、都市の拡大につれて増加する住民に手近な水資源を供給した。
北京の路地を指す「胡同(hutong)」という語は、モンゴル語で「井戸」を意味する「hotlog」に由来するといわれる。どの路地にも井戸があったことから、「hotlog」は路地そのものを表すようになった。しかし、北京の井戸水は概して苦味があったため、甘く柔らかな水を産する井戸はたちまち評判となった。
運河は、主として永定河と結んで建設され、堀に水を導き、さらに水運として利用された。豊台区で発見された金代水門遺跡を見ると、こうした水路がいかに巧みに造られた構造物であったかがわかる。水はこうした水門を通って金代首都の南の堀である涼水河へと流れこんだ。
何より重要だったのは、東部の大運河と結ぶ水路を建設することであった。これによって、首都は中国南部とつながり、穀物や絹の供給を容易にした。石炭、石材、木材などもこのルートを通して運ばれた。こうした運河の多くが今も残っており、最近になって再び浚渫作業が行われている。今や遊覧船もこのような水路を行き交っている。
一方で、過剰な開発と爆発的な人口増加が、北京の水を取り巻く状況を危機的なものとしている。千年前、北京一帯は青々と茂った森林であった。しかし金の首都「中都」と、続く元の首都「大都」建設のために、広域にわたって大規模な伐採が行われ、その結果北京の気候と水資源に深刻な影響を及ぼした。深い地下水庫は数世紀にわたって水を供給し続けてきたが、今や地下水面は沈下している。雨が少ないと、竜王に雨を祈願する寺廟が繁盛した。
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金代に建設された海淀区釣魚台の行宮 |
北京地域における水の利用史を学ぶことは、私たちにとってよりよい環境保全の道を確かなものにすることとなる。さまざまな出会いを紹介することによって、私がどのようにして水資源を正しく評価する術を学んだかを述べていきたい。
(訳・小池晴子)
五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より
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