▼特集 西部大開発を引っぱる人口世界一の巨大都市・重慶 |
大きな都市とりまく大きな農村 「新区」建設し、人口圧力を緩和
重慶の最大の特徴は、大きな都市部と大きな農村部で構成されているというところにある。重慶市の人口は世界一だが、その面積もまた8万平方キロと広大だ。市の下に40の区と県がある。 3200万の人口のうち、農村人口は60%以上を占めている。改革・開放以来、農村の大量の余剰労働力が市内に出てきて労働者となった。「棒棒軍」もその一部である。 中国は改革・開放以来、東部沿海部の経済が急速に発展したが、西部は相対的に遅れた。2000年に、政府が「西部大開発」(注1)の政策を提起したあと、西南部にある重慶の重要性が非常に明確になった。 重慶市の発展・改革委員会の胡処長は「中央が重慶を直轄市にしたのは、重慶という大都市の特徴を発揮させ、大都市が周辺の農村経済の発展を先導し、都市圏を作り上げ、最終的に西部地区を共同発展させるためだ」と述べた。 しかし、膨大な人口や広大な農村は、重慶にとって大きな圧力である。直轄市となって8年、重慶は産業構造の調整によって農村経済を大いに発展させ、サービス業を優先的に発展させるなどの方法で、大きな成果をあげた。いまや重慶の経済の発展水準は、東部の平均の発展水準に達している。
また、山間部が都市の発展の障壁となっているのを打破するため、重慶市はすでに東部と西部に「新区」を三カ所、計画・建設し、これによって都市の人口増の圧力を緩和しようとしている。 重慶は、都市化が速い。1997年に825万人だった都市部の人口は、2003年には1192万に増えた。 (注1) 西部大開発 地域の経済格差を是正し、生態系の保護と少数民族地域の発展促進のため、政府が2000年に提唱したスローガンで、対象は西部の十二の省、直轄市、自治区。 軍需から民需へ
重慶は、中国の近代工業が比較的早く発展した都市であり、中国の古い工業基地の一つである。沙坪ハ区にある嘉陵集団(グループ)は、オートバイの生産を主とする大型の企業である。 嘉陵集団は120年以上の歴史を有している。その前身は、1875年に、清末の政治家、李鴻章(1823〜1901年)が上海に創立した軍需企業の「竜華」銃器工場である。それが1938年に重慶に移転した。 嘉陵集団はずっと軍需企業だったが、改革・開放後、民用品の生産を始めた。1981年、日本のホンダと技術協力を始め、オートバイを生産した。現在までに嘉陵集団が生産・販売したオートバイは1200万台近い。これは全国のオートバイ台数の5分の1以上を占める。 嘉陵集団の発展の道は、重慶の工業発展の縮図である。抗日戦争が始まったあと、国民政府は重慶に遷都し、中国経済の重心が西に移った。一部の鉱工業は次々に重慶に移ってきた。このときから、重慶の工業基盤ができたのだった。 1960年代、西南部にある重慶には「三線企業」(注2)が集中した。重慶には豊富な鉱物資源とエネルギーがあり、国は重慶に投資して、多くの大型の企業を建設した。工業は重慶経済を支える柱となった。分厚い工業基盤も重慶が直轄市になる重要な理由の一つとなった。 改革・開放以来、重慶にある一部の大型軍需工業は、順調に民需産業に転換した。多くの民営企業が、雨後の筍のように設立された。また、日本、フランス、米国などの外資企業が続々と重慶に来て投資し、工場を建てた。これによって重慶の工業は新たな段階に進んだ。 しかし、古い工業基地である重慶は、解決が待たれている問題もある。胡処長は「重慶の工業は、その発展が比較的速いといっても、産業構造に不合理といった問題が存在している。近代的な工業の発展の情勢に適応するため、ハイテク産業は今後の発展の重点である」と言う。
産業構造の改造のため、重慶は2001年に、都市部の北部に重慶北部新区を設立した。この新区の面積は127平方キロあり、生物医学、光電子、ソフト生産などのハイテク企業の発展に重点を置いている。これまでに北部新区にはすでにいくつかの工場が進出した。重慶の人たちの間では、環境の良いこの新区に部屋を買ったり、投資して企業を設立したりするのがブームになっている。 (注2)「三線企業」 中国は国防上の理由から、1960年代から1970年代にかけ、鉱工業を内陸部に移転させた。一線は沿海地域、三線は四川などの内陸部、二線はその中間地帯を指す。三線に移転した鉱工業の企業を「三線企業」という。
|
|