劉世昭=写真・文 |
清王朝(1644〜1911年)は、東北地方から山海関内に「入関」して以来、関内(現在の河北省)に2カ所の皇族陵園
を建てた。それが北京の東、河北省遵化市にある 「清の東
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清の東陵は、順治18年(1661年)に第3代皇帝・順治帝の孝陵を起工してから、光緒34年(1908年)に慈禧太后(西太后、第10代皇帝・同治帝の母)の定東陵が完工するまで、あわせて247年もの間、営造された。 ここには順治(在位1644〜61年、孝陵)、康煕(同1662〜1722年、景陵)、乾隆(同1736〜96年、裕陵)、咸豊(同1851〜61年、定陵)、同治(同1862〜75年、慧陵)という5人の皇帝と15人の皇后、141人の皇妃が眠っている。陵墓の総建築面積は113万平方メートルで、中国最大の古建築群といわれる北京の故宮よりも、10万平方メートル大きい。中国に現存する皇族陵墓群のなかでは規模最大、最もよくシステム化され、完全なまでに保存された建造物となっている。
清の東陵に埋葬された皇族のなかには、清代の歴史に大きな影響をもたらした人が多い。たとえば、清の太宗・皇太極(第2代皇帝、在位1627〜43年)の妃で、のちに2人の幼い君主(順治と康煕)を補佐した女性政治家の孝庄文皇后。また「康乾盛世」といわれる繁栄の世を築いた康煕帝と乾隆帝、さらに二代の幼帝に代わって政権をにぎり、48年もの間、清朝を支配した慈禧太后などもそうである。それらの陵墓はいずれも、貴重な歴史的価値がある。
清の東陵の場所選定と建築にさいしては、「居中為尊」(居中尊ぶとなす)、「長幼有序」(長幼の序あり)、「尊卑有別」(尊卑の別あり)という中国の伝統的な観念に基づいて、設計され、排列された。中央に置かれた陵墓が、入関後第一代の皇帝・順治帝の孝陵であり、ほかの皇帝陵は長幼の序にしたがって、その左右に扇形に並べられた。 皇后と皇妃の陵墓や陪塚は、それぞれ当時の皇帝陵墓のかたわらに建立された。また、皇后陵の神道(墓前に通ずる道)は、いずれもそれぞれの皇帝陵の神道に通じているが、各皇帝陵の神道も中軸線上の孝陵の神道とつながっており、それは巨大な「枝状体系」をなしている。清王朝がいつまでも発展しつづけ、子々孫々繁栄していくことを意味しているのである。
全長5500メートルの孝陵の神道は、清代の皇帝陵のなかでは最長・最大で、最も芸術性に富むものだ。神道には順に、大牌坊(大きな鳥居形の建物)、大紅門、功徳碑楼、石像生(人や動物の石像)、竜鳳門、隆恩門、隆恩殿、明楼、宝頂が並んでいる。木造を模した白石の大牌坊は、幅31・35メートル、高さ12・48メートル。表面には麒麟、獅子、雲竜、獣などが刻まれ、そのすばらしい彫刻技術は中国でもまれに見るものである。神道の両側には、あわせて18対の石像がある。文官3対、武官3対、立像と伏像の馬、ゾウ、ラクダが各一対、また立像と座像の麒麟、筍猊(伝説上の猛獣)、獅子が各一対である。これらの石像は、神道の両側に800メートル以上もの勇ましい隊列をくんでいる。皇帝陵にいっそう厳粛な雰囲気を与えるものだ。
裕陵は乾隆帝の陵墓である。この陵を建設したころは、国が隆盛をきわめ、国庫も豊かな時期にあった。そのため、全国の名匠たちがここに集まり、多額の資金を投入した巨大プロジェクトとなったのである。 裕陵の地下宮殿はすでに開けられているが、そのなかのあらゆる壁、天井、門楼などには、仏教をテーマとした彫刻がびっしりと施されている。仏像、供養人、神獣、法器、経文などである。仏教を信奉した乾隆帝は、これらの神仏に伴われ、保護してもらいたかったのであろう。これまでに発掘された中国の地下宮殿のなかで、こうした仏教彫刻があるのは裕陵だけ。そのためここは「石刻芸術の宝庫」「荘厳で穏やかな地下仏堂」と称されている。
定東陵は、清の東陵のなかでは最後に立てられた陵墓である。普祥峪と普陀峪に分けて建てられた二つの陵墓からなり、それぞれ咸豊帝の東太后・慈安と、幼帝に代わり48年間も中国を治めた西太后・慈禧が葬られたところである。 慈禧太后は、普陀峪定東陵が完成した16年後にその権力を利用して、「(建設後)長い年月が経ったので、修築が必要である」という理由で、陵墓をさらに13年間にわたって修築させた。そのため、それはより美しく、豪華なものとなったのである。
普陀峪の陵恩殿とその両側の配殿にある64本の柱には、柱にからまる金色の竜が描かれており、梁などの木造部分にはいずれも金箔が施されている。三つの殿内の壁には「万福万寿、寿福綿長」を意味する30枚の吉祥模様を彫刻したレンガがある。それはあわせて237平方メートルにおよび、すべてに金箔が施されている。この箇所だけで4592両(143・5キロ)の黄金が使われており、きらびやかで美しい。これは清の東陵だけでなく、明・清時代の皇帝陵のなかでも、また宮廷建築のなかでも他にはないものである。
普陀峪定東陵にある「竜鳳図」は、いずれも鳳凰を上、竜を下としたデザインになっている。竜が上、鳳凰が下という、竜を主とした伝統的なパターンに反しているが、そこからは慈禧太后の強い権力欲がうかがえる。 清の東陵は、皇帝と皇后の陵墓のほとんどが長さ20キロほどの陵壁のなかに集中しているが、順治帝の生母・孝庄文皇后の昭西陵だけはポツンと大紅門東側の陵壁の外に建てられ、特例となっている。
昭西陵のこの特殊な場所は、陵墓の主の伝奇的で輝かしい生涯を物語っている。彼女は若いころ、太宗・皇太極の政務を助け、清の政権が中原に入るための基礎をつくった。皇太極が突然逝去した後、政治を熟知していた彼女は、多くの親王たちが皇位を奪おうとした混乱状態のなかで、知恵と才覚でそれらの親王たちを退け、自らの6歳の息子を皇位につかせた。つまり、それが順治帝である。以降、内乱もおさまった。 順治18年(1661年)、24歳の順治帝は天然痘にかかり、危篤に陥った。そこで孝庄文皇后は、すでに天然痘を治して、免疫力のある玄・を皇位の後継者にしようと主張した。順治帝が逝去してから、八歳の玄・、つまりのちの康熙帝が即位し、当時49歳の孝庄文皇后は、またもや皇帝の政務を補佐した。康熙帝が清王朝を繁栄させえたのは、孝庄文皇后の才知と密接なかかわりがあったといえよう。
康熙26年(1688年)、75歳の孝庄文皇后が病のために亡くなった。清朝の伝統的な規定によれば、遼寧省瀋陽に陵墓が建てられた清の太宗・皇太極と合葬すべきであるが、太宗と合葬されたくなかった孝庄文皇后は、病床にあって康熙帝に次のように遺言した。 「太宗の棺は埋葬されて時が経ち、卑(身分の低いもの)は尊(身分の高いもの)を動かしてはならない。こうした時に合葬するのは都合が悪い。もし新しい陵墓を造るなら、多くの人力が必要になり、合葬する意味がない。わが子孫を恋しく思い、離れたくない。必ず遵化に安置してもらいたい。これで遺憾なし」と。 こうして、孝庄文皇后の棺は東陵の風水壁の外に埋葬された。昭西陵は東陵と体系的に区別された。と同時に、子孫のそばに安置してほしいという孝庄文皇后の願いもかなえられたのである。 |
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