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于文=文・写真 |
華中地域に位置する湖北省咸寧市赤壁鎮は、約1800年前、『三国志』の「赤壁の戦い」が行われた地である。時代は流れ、現在は「城在山中、人在画中(街は山に囲まれ、人は絵の中にいる)」と例えられる美しい都市だ。 「赤壁の戦い」の遺跡
208年11月、中原を統一した曹操は80万の大軍を率いて南下し、東呉に迫った。孫権と劉備は協力してこれに対抗した。策士のナモ統は、鉄の鎖で船と船をつなぐ作戦、いわゆる「連環の計」で、水戦に慣れぬ曹操軍の弱点を克服できると曹操に進言した。しかしこれは、後に曹操軍の船を全焼させる「火攻め」のための策略であった。 曹操軍の船は長江の北岸に停泊していた。火攻めを成功させるには、東南の風が必要だ。孫権・劉備連合軍の軍師である諸葛孔明は天象を察し、東南の風が到来する日に進撃した。火攻めは成功し、たった5万の軍で10万の曹操軍を破った。この小軍で大軍を破る戦術は、中国の軍事史において、ひとつの経典となった。 赤壁の戦跡は、湖北省の省都・武漢市から112キロ離れたところにある。現在は歴史を偲ぶ観光地となり、赤壁石刻、拝風台、鳳雛庵などが昔を物語る。
遊覧船で長江を南にさかのぼると、左岸には石壁に刻まれた「赤壁」という二文字が見える。言い伝えによると、呉の大都督・周瑜は戦の後の祝賀・表彰宴席で、曹操軍の船から上がる炎が、東岸の石壁に真っ赤に映った光景を思い出し、剣で「赤壁」の二文字を刻んだという。歴史学者は、この文字は三国時代の遺跡ではないと考証しているが、その歴史は唐代まで遡ることができるという。どちらにしろ「赤壁」の二文字は、後代の人が大戦を追憶したものであり、現在の地名の由来ともなっている。 拝風台は長江東岸の南屏山にある。諸葛孔明が天象を察し、東南の風を祈った地である。現地の人の話では、ここには東呉の陣太鼓を叩ける道士がいた。彼がドンドンと太鼓を打ち鳴らし始めると、あたかも一触即発の「赤壁の戦い」に戻ったかのようであった。残念ながら、彼は1998年に亡くなり、その響きは拝風台から永遠に消え去ってしまった。
鳳雛庵はナモ統の故居で、南屏山に隣する金鸞山にある。ナモ統は諸葛孔明と同じく著名な蜀の策士であった。「臥竜(諸葛孔明)か鳳雛((ナモ統)、どちらかを得たものは天下を取ることができる)と盛んに言われていた。現在、多くの観光客が鳳雛庵を訪れる。庵内には古木が聳え、千年の歴史を持つ一本の銀杏の木は、赤壁の移り変わりを見続けている。 赤壁では「赤壁の戦い」の遺物が5600点発見された。中でも、連続で矢を放てるバネ仕掛けの弓は非常に貴重だ。これらの遺物は赤壁博物館に陳列されている。 自然を活かした美しい郷里
咸寧市は気候がよく、水が豊かな地である。モウソウチク、茶葉、柑橘類、カラムシなどが名産だ。咸寧の人々は一生懸命努力して、自分たちの郷里を建設している。 師志敏さんは咸安区桂花鎮に住む、大卒の学歴を持つ農民だ。小さいころから農業に興味を持っていたので、華中理工大学に進学した後、華中農業大学に転学し、果樹栽培を学んだ。卒業後、四川省のある農産物販売会社で副社長にまでなったが、高いポストと待遇を捨て、故郷に戻ってきた。果樹園を造り、桃、梨、スモモの新種を開発し、故郷の農民たちを豊かになるように導いている。
村を出て大学まで卒業した者が、また農村に戻ってくることは、普通では考えられない。師さんも、家族には非常に反対され、村人には「バカなやつ」と嘲笑された。しかしそんな外圧に耐えつつ、全国各地から果樹の新種を取り入れ、実験しては改良し、改良しては実験しを繰り返した。 数年間の努力の結果、ついに10ムー(1ムーは6・667アール)の苗木畑、200ムーの観光用果樹園を造った。故郷の農民たちにも自分の苗木を薦め、模範果樹園50ムーと農民たちを援助して果樹園500ムーを造った。年間の生産総額は150万から200万元に達する見込み。 「私の故郷は山や水が美しく、土壌や気候は果樹の栽培に適しています。政府も支持してくれていますし、私の仕事はここにあるのです」と師さんは話す。今後五年以内に、1万ムーの果樹園を造り、生産額は3000万元以上になる予定。また、毎年10戸以上の貧困農家のために2ムーの果樹園を無償で造り、一緒に豊かになろうと考えている。
政府と農民たちの努力により、咸寧市の様々な資源が開発され、環境保全型農業も著しく発展した。 咸寧市はモクセイの産地である。師さんの故郷である桂花鎮には、24の村の5700戸にモクセイの木がある。2002年、全鎮は2000ムーのモクセイ苗木栽培基地をつくり、9000万本の苗木が育てた。モクセイの木は都市を緑化し、花は香料、蜂蜜、酒などを作るのに利用される。一本0・2元の苗木は、成長すると200元に価値が上がる。モクセイの付加価値を高める加工も大きな富をもたらした。
嘉魚県新街鎮には800ムーの真珠養殖基地がある。2001年、武漢明珠生物有限公司と現地の農民が真珠の養殖に成功し、2004年3月、浙江省の開発商の投資を誘致した。養殖基地の投資総額は520万元、90万の真珠貝を養殖している。生産額は3000万元以上になる見込み。 「ここは長江の水を直接引くことができます。水質もよいし汚染が少ないので、真珠貝の成長にとても適しています。また、交通の便がよく、政府もビジネスや投資の招致に熱心です」と、開発商は投資に最適な地だと満足気に語る。 まずは保護、次に開発
咸寧市で「まずは保護、次に開発」という言葉をよく耳にした。市党委員会の李明波・書記は「国内にも海外にも、環境を犠牲にして都市を建設する例がたくさんありますが、咸寧市はこれを戒めとしなければなりません。私たちは一貫して『まずは保護、次に開発』という原則を守り、咸寧市を、武漢市の傍らにある緑豊かな地として建設しようと努力しています」と話す。すでに200カ所以上の汚染が深刻な炭鉱を取り締まった。高い利益が期待できる投資プロジェクトでも、環境に有害であれば建設を認めない。 山々に囲まれ、底が見えるほど澄み切った水を湛える金桂湖は、咸安区の南川ダムにある。2002年、たくさんの投資家たちが南川ダムを開発し、金桂湖を観光地にしようとした。年間の税収が数十万元しかない桂花鎮にとって、これは大きなプロジェクトである。しかし、開発は往々にして汚染を引き起こす。そこで、咸安区と桂花鎮の指導者は、環境保護を開発プロジェクト認可の基本条件とした。その結果、高額な環境保護対策の費用が必要となり、投資家たちはしり込みした。開発プロジェクトは一時行き詰まってしまった。 そんな時、重慶麦克爾公司(maker)の殷祥雲会長が金桂湖にやってきた。美しい山と水を目にして、涙がこぼした。「乱開発をすれば、この貴重な大自然は失われてしまう」殷会長は決して湖と周囲の環境を壊さない開発を行うと誓った。これに対して、区政府も最善のサポートをすると表明した。
開発を行う前に、30万元を投与して微生物汚水処理場を建設した。処理後の水は湖に戻すのではなく、電動ポンプで吸い上げ、ダム区以外の地域に流す。区政府も湖の周辺にあるレストランを撤去させた。また、農民に請け負わせていた魚の養殖場を回収し、違約金を支払った。2003年4月、金桂湖国際会議リゾートセンターが正式に着工し、一連の環境保護対策も相次いで始まった。電動遊覧船を利用し、ガソリンで湖水が汚染されるのを防ぐ。先端技術を取り入れ、トイレの廃水を処理する。50万元を投資して貴重な苗木を購入し、ダムの周辺を緑豊かにする・・・・・・。 開発プロジェクトは現在も続いている。湖のほとりに立つと、依然として山は青く水は澄んでいて、野ガモが群れをなしている。自然と調和した国際会議リゾートセンターが湖畔に佇み、金桂湖の明るい未来が窺える。 【資料】 |
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