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海淀区東北旺村の中日友好松と石碑。孫平化氏の遺骨も松林の中に埋蔵されている。毎年8月15日の孫氏の命日には、筆者もここへ来て古人を偲ぶ。 |
中国において人民公社が最も盛んであった頃、東北旺人民公社は選ばれて国際的役割を演じることになった。この公社は1978年10月、日中両国の平和友好条約調印を記念して「中日友好人民公社」と命名された。
今でも、これを記念して植えられた樹の間に石の記念碑が置いてある。もう一つの石碑は、生涯を中日両国の友好と交流推進のために捧げた一人の傑出した人物、孫平化中日友好協会会長を記念するものである。
地元住民、李元海氏(55歳)は、この間の歴史を誰よりもよく知っている。33歳の時から同公社の指導的役割を果たしてきた李氏の大きな顔は、同公社発足当時を回想するとき暖かな微笑にほころぶ。
彼によると、北京北西部にあるこの村が選ばれたのは、一つには首都に近かったためであり、もう一つは農業大学にも近く、農民たちは園芸学の専門家から貴重なアドバイスが得られたからである。「この公社は比較的小規模でしたが、農業生産高において成功していました」と彼は続けた。
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かつての人民公社は現在では中関村の一部分となっている |
発足当時、北京を訪問する日本の要人は、この人民公社視察によく案内された。日本人学校の児童たちも恒例の芋掘りデーに参加した。これは子どもたちにとって、中国庶民の生活に触れることのできる数少ない機会だった。また同公社には、北京最初の釣堀があった。さらに、当初の事業計画の一つは、日本向け野球用グローブを製造することだったが、これは、当時の中国の通貨統制によって利益をあげることができなかったという。
日本から導入されたビニールハウスは、野菜の生産高を劇的に高め、1980年代後期には畑は一面のビニールカバーの海であった。ハウス栽培の野菜は現金をもたらした。自由市場原則とより進んだ開放政策が、従来の「革命的」人民公社方式にとって代わった。
中日友好協会会長の孫平化氏が私たちを案内してくださった1996年頃には、名前も「友好農場」に変わっていた。地元農民は、野菜栽培よりも手がかからず、水もずっと少なくてすむ果樹栽培に中心をおき始めていた。あらゆる場所に桃園があった。
2002年に李氏が地域の将来計画を私に説明したときには、みずみずしい大きな桃がまだ豊かに収穫されていた。「北京大学バイオテクノロジー研究センターがここに建てられてからすでに四年になります」。東北旺村は北京の最先端開発区、すなわち中関村ハイテク・ゾーンの西の端にあたる。
北に走る新建設の大通りを見やると、一目でこの場所がすでに変容しつつあることがわかる。最近廃園となった二カ所の桃園の前には、間もなく着工するソフトウェア団地構想が掲示されている。通勤電車の駅も近くに建設中である。
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玉淵潭の桜。1970年代に当時の田中角栄首相が植えた桜もある
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農場は、いまや知的テクノロジーとビジネス開発に重点を置いた企業体に正式に進もうとしている。桃の樹は去って、シリコンバレー風の整然としたオフィス街が現れる。しかしながら、この新しい分譲地には現代風の風景美が生まれようとしている。
ここにある樹木は北京のために新しい形で仲間入りする。果樹栽培のためでも、仏閣のためでも、焚きつけにするためでも、宮廷庭園のためでも、墓地の目印のためでもない。単純に現代の建造物を引き立てる装飾に用いられる。東北旺村は二十年の間に人民公社から桃園に、桃園からハイテク街へと変貌したのである。(訳・小池晴子)
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