半世紀にわたり日本の負傷兵を
世話したある農民の話
 
                                                王浩=文

 今年は、あの悲惨な戦争が終結して60周年の節目の年である。戦争が人類にもたらした大きな災禍をふりかえるにあたり、河南省南召県の農民、孫邦俊さんの一家が、なんと47年もの間、日本の負傷兵・石田東四郎さんの世話をして、ぶじに帰国させたという実話を聞いた。そこで、同県にほど近い南陽市を訪れ、孫邦俊さんの家族や証言者を取材、この実話を記録することにした。

日本の負傷兵

石田さんの「帰国実現報恩会」を開いた増田町の人々

 南陽市は河南省南部に位置する「歴史文化の町」である。三国時代(220〜280年)の蜀国の丞相・諸葛亮は若いころに、この地で晴耕雨読した。いわゆる「三顧の礼」で知られる故事は、ここが発祥の地だという。

 南陽市から北へ自動車で一時間ほど走ると、南召県太山廟郷につく。孫邦俊さんの家が、この村にあるのである。孫さんとその息子の孫保傑さんは、すでに他界したという。息子の嫁の王成香さんが、この話をもっともよく知る人物となっている。

 彼女の話によれば、孫邦俊さんが最初に石田さんに会ったのは、1946年秋の収穫期のことだった。そのとき、隣村の黒石寨で商売をしていた孫さんは、ある大通りで、ボロボロの衣服をまとった物乞いを目にとめた。人に聞けば、日本の負傷兵であるという。流浪の果てにたどりつき、すでに一年が経過していた。聾唖者であるらしく、毎日、物乞いをして暮らしていた。空腹のために、捨てられた野菜くずまで拾って食べているようだった。見たところ、長くは生きられそうにない。ある友人が、孫さんに言った。「孫さん、あんたの家は家族が多いのだろう。あの負傷兵を、つれ帰ってくれないか。なにか少し食べさせてやれば、生きのびられる」

石田さんが47年間暮らした孫さんの家。王成香さんとその娘さん(写真・王浩)

 当時は、抗日戦争が終わって、まだ一年。日本軍が中国人に与えた災禍の記憶が、鮮明によみがえるころであった。孫さんの住む太山廟郷にも、日本軍の略奪に遭った村人は多かった。しかし、そのかわいそうな日本の負傷兵を見て、孫さんは深く同情した。そして、その日のうちに彼を連れ帰ったのである。

 そのころ孫さんは50過ぎで、子どもたちもまだ幼かった。妻は負傷兵をひきとることに反対したが、孫さんは言った。「うちに置いてあげようよ。でないと、飢え死にしてしまう」。孫さんの意志の強さに、妻はもう、二度となにも言わなかった。衣服や靴を持ってきて、負傷兵に着替えてもらい、さらには医者を呼んで診てもらったのだ。

 孫さんの家が日本の負傷兵をひきとったという噂は、すぐにも村中に伝わった。多くの人たちが、門の前でこう叫んだという。「子どもたちが戦争に行かされて、いまでも音沙汰がないじゃないか。どうして、日本兵をひきとっているの!」。亡くなった肉親のかたきを打とうと、その負傷兵を叩き殺そうとする人もいた。しかし、孫さんは言った。「水心あれば、魚心あり。かけがえのない命だよ。彼を見殺しにはできないよ」

 孫さんの説得のもと、この名前さえもわからない負傷兵は、このときから47年間、孫家の世話になるのであった。

苦労をともにして

石田東四郎さん

 負傷兵をひきとってから、孫家の暮らしは少しも落ち着かなくなった。王成香さんは言う。「彼はよく深夜に大声で叫ぶか、なんの歌詞かわからない歌をうたっていたんです」。あるときは、自分の顔を殴ってあちこちに青あざをつくっていた。またあるときは、彼にあげたばかりの靴を、包丁で細かく切りきざんでしまった。寝床のかけぶとんも引き裂いて、中入れの綿だけが残っていた……。その後、彼の左耳の後ろ側に、小指大の弾痕があるのが発見された。おそらく弾丸は大脳まで達しており、そのため彼の自活する能力が失われたのだろうと考えられた。

 負傷兵のこうした異常な行動は、まわりの村人たちを驚かせた。「生活は苦しいだろうに、なぜ負傷兵をタダで養っているのか。追い出せばいいじゃないか」などと忠告する人もいた。しかし、孫さんは言った。「追い出したら、あの人はどうやって生きていくんだい?」

 頭をケガしているせいか、負傷兵には働く能力がなかった。村人たちの記憶によれば、いつも農作業に出かけるのだが、彼にはどのように教えてもできなかった。畑で草取りをするときも、彼は作物の苗までいっしょにさらってしまう。羊のエサを刈るときも、彼にはある種の青草しかわからないので、野山をあちこち探しまわった挙句に、集めた草は子羊一匹ですら満足させられないものだった。しかし、孫さん一家は、肉親と同じように彼に接した。

 負傷兵をつれ帰ってまもなく、流浪生活や傷の影響があったのかもしれないが、彼は突然、半身不随になってしまった。孫さん夫婦は、彼の生活の面倒をみるだけでなく、少ないお金をかき集めて、または親戚や友人などから借金をして治療にあたった。 孫家の隣人で、78歳の霍春全さんは、こう回想する。ある深夜のことだった。孫さんが、霍家の門をたたいて言った。「日さん(日本の負傷兵のこと)が高熱を出した。医者に診せたい。お金を少し貸してもらえないだろうか?」。霍さんは、そのときの孫さんのようすが忘れられないという。厳しい寒さで、孫さんはブルブルと震えながら、門の外に立っていた。ヒゲも鼻水もいっしょくたに凍っていた。霍さんは急いで5元を持ち出して、彼に貸した。

 夜半に負傷兵の小屋から叫び声が聞こえると、寒い夜でも、孫さんはいつも上着をひっかけ、見に行った。ふとんをかけ直してあげたり、おまるを持っていったりしたのだ。こうした孫さん夫婦の献身的な世話により、負傷兵はやがてふつうの人と変わらず歩けるようになっていった。

石田さん(向かって右から四番目)の帰国を見送る孫保傑さん一家

 孫さんがこのようによく世話をしている姿を目にして、村人たちもだんだん負傷兵を同郷の仲間として受け入れていった。負傷兵は愛煙者だったので、刻みたばこであれ、紙たばこであれ、彼に会うと存分にたばこを勧めた。また貧困救済により、村役場が綿入れの上着やかけぶとんを村人に分配するときも、彼の分を忘れなかった。

 1950年代の戸籍登録のときには、彼が孫家の一員として登録され、規準によって土地が分配されたのである。人々は、彼のことを「日さん」と呼んでいた。戸籍登録の際に、村長は彼に木の枝を持たせて、地面に自分の名前を書かせた。乱れた字ではあったが、人々にはそれが「李」という字に見えた。そのため彼は、「李同」と名付けられた。日本人負傷兵の中国名になったのである。

 50年代末期、河南省は大きな災害に見舞われ、孫さん一家の生活も苦境に立たされた。にもかかわらず、孫さんの子どもたちは、食べ物があれば「日本のおじさん」に分けるのを忘れなかった。飢えに耐えられなくなり、食べ物も手に入らないとき、負傷兵は隣村へ嫁に行った孫さんの長女・孫福芝さんの家に行った。あるときなどは、孫福芝さんにもどうしようもなくなった。

 彼女は目頭を押さえながら、布靴を作るための糊を温め、食べさせてやった。その苦しい時期において、負傷兵は孫さん一家とその親戚、友人たちの助けを借りながら、山菜を取ったり、野生のくだものを拾ったりして、ようやく命をつないできたのだ……。

津田康道さん(中央)を訪ねた南陽市訪日団のメンバー

 「文化大革命」のころは、日本の負傷兵が孫さん一家に多大な被害をもたらした。ここまで話すと、次女の孫福蓮さんは目に涙をためた。日本人を引きとったので、孫さん一家は「外国と内通している」と中傷され、批判の対象となったのだ。孫さんの息子の孫保傑さんも、それにより学業を中断した。適齢期になっても、嫁になる相手がなかなか見つからなかったが、ある人の紹介で隣村の王成香さんという娘と結婚することになった。「孫さんの家には日本の負傷兵がいる。たいへんな負担だよ」というある人の話を聞いた王成香さんは、「どの家にも年寄りがいるでしょう。まったく関係のない日本人に、そんなに親切なのだから、私につらくあたるはずがない」と、キッパリ答えた。

 孫さんの家に嫁いでから、王成香さんは老人と日本の負傷兵の面倒を見ることになった。胃の弱い負傷兵には、温かなスープと柔らかなご飯を作ってあげた。タバコが好きだと知ってから、どんなに生活が苦しくても、市でタバコの葉を買ってあげた。こうして負傷兵と孫さん一家は、ともにその苦しい歳月を乗り越えたのだ。

本当の家族を捜す

増田町から太増植物園に対して、寄付が贈られた。向かって右は劉建国南召県党委員会書記(2001年)

 孫邦俊さんは負傷兵を引き取ってから、ずっと彼の家族を捜すことを考えていた。そのため、なんども地元政府の関係部門へ聞きに行ったが、いつも梨のつぶてだった。55年より、中国政府は中国に残留していた日本人を帰国させた。それを聞いた孫さんは、急いで負傷兵を連れて地元政府へと向かった。しかし、負傷兵は記憶喪失だったので、本当の名前と経歴を話すことができなかった。地元政府も、助けようにも助けられない。待ちに待った孫さんと負傷兵だが、3日後に家に戻った。

 62年、孫さんは不治の病を患った。いまわの際に、孫さんは息子の孫保傑さんにこう言いふくめた。「これからも、日本のおじさんの面倒をよく見なさい。どんな人にも親や兄弟、姉妹がいるだろう。機会があれば、日本の家族を捜してあげなさい。そして、彼にも一家団欒してもらおうではないか!」と。

 孫保傑さんは、この父の遺言をしっかりと記憶していた。72年、中日国交正常化が実現してから、両国の交流は日増しに盛んになっていった。それは、孫保傑さんの自信となった。彼はあらゆるところに手紙を出した。地元政府や中国赤十字会、中国華僑連合会などを行き来して、家の仕事は妻や子どもにすっかり任せた。その十数年間に、どれだけの手紙を書いたかわからないほどになった。返事は一つもなかったが、決してあきらめはしなかった。奔走したので、3000元も借金していた。

 努力が報われるときがきた。89年の冬に、事態は好転した。当時、孫保傑さんは近くの方城県に、根本利子さんという日本人女性がいることを知り、負傷兵を連れて行った。ことの経緯をすっかり聞いた根本さんは、感動して泣き崩れた。その後、彼女はすぐに日本の友人にあて、「家族捜しを手伝ってほしい」という手紙を出した。これが、日本の負傷兵が家族を捜しているという最初の消息となったのだ。

1997年5月、増田町での南陽市訪日団の歓迎会。町の人たちと歌をうたう

 90年、日本の兵庫県からきた播州訪中団が、南陽市を訪れた。そして、孫保傑さん一家のことを知り、負傷兵の写真をたくさん撮った。訪中団の帰国後、新聞に「肉親捜し」の記事が掲載された。

 しばらくして日本からの手紙が、引きも切らずに孫さんの家に届いた。その多くは、写真や頭髪などの物証が欲しいという内容だった。あらゆる機会を失わないため、孫保傑さんは、そのほとんどに返信をした。貧しい孫さん一家だったが、貯金をはたいて切手に使ったのである。

 幸いなことに、有力な便りがあった。津田康道さんという日本人が、肉親捜しの新聞記事を読み、その負傷兵は数十年前に自分といっしょに中国侵略戦争に参加した石田東四郎さんだと確信したのだ。

 92年、津田さんは、はるばる日本から南陽へとやってきた。南陽ホテルで、当時の写真を出して、大声で石田東四郎さんの名前を呼んだが、負傷兵にはなんの反応もなかった。にもかかわらず、津田さんは、目の前にいる人が間違いなく戦友の石田さんだと言い切った。帰国後、彼は石田さんの弟、石田小十郎さんに連絡をとった。しかし、「兄はすでに戦死した」と信じている弟は、報道された人物が兄とはどうしても思えなかったのだ。

王成香さんと懇談する于明新人民中国雑誌社社長(写真・王浩)

 93年の春節(旧正月)、多くの人の支援のおかげで、負傷兵の血液サンプルが日本へと届けられた。秋田大学の研究室の血液鑑定によって、この人がたしかに秋田県増田町生まれの石田東四郎さんであると確認された。その弟が石田小十郎さんである。

 この知らせを聞いたとき、孫保傑さんは感激のあまり涙した。93年5月7日、石田小十郎さんからの手紙が孫家に届いた。家族全員、興奮を抑えきれずに、次のような内容の手紙を読んだ。

 「孫保傑様……あなた様のご家族は、三世代にわたって、自らの身にふりかかる災難をかえりみず、四十数年間も人道主義を貫き、石田東四郎を引きとって助けてくださいました。感激のきわみです。私の兄は九死に一生を得て、幸いにもご家族に出会いました。そうでなければ、もうこの世にはいなかったでしょう。私は、石田家を代表して、心からの感謝の意を表します……」(要旨)

友好の橋をかける

太増植物園の王忠科園長(写真・王浩)

 93年6月8日、中国に50年近くも滞在した石田東四郎さんは、ようやく帰国することになった。孫保傑さん一家は、小麦の刈り入れをする暇もなく、借金をして運転手を雇い、石田さんを洛陽へと送り届けた。妻の王成香さんは、石田さんのために揃いのスーツを買ってあげ、きちんとした身なりにして帰国させた。「石田さんが出て行くとき、なんとも言えない複雑な思いになりました。嬉しいのやら、悲しいのやら、わからなかった。幼い孫は、おじいさんがいないよ〜と泣いていました」と王さんは語る。

 帰国する日、石田さんはどうしてもそこを離れようとはしなかった。そこで孫保傑さんが自ら日本まで送り届け、さらに20日間もつきそったのだ。

 孫さんの家族が3世代にわたって、石田東四郎さんを世話をしたことは、秋田県増田町に一大センセーションを巻き起こした。6月11日、石田さんと孫保傑さんが大阪空港に到着すると、多くの記者たちに取り囲まれた。彼らは至るところで人々に歓迎された。

 孫保傑さんは中国に帰るとき、石田さんに別れを告げる勇気がなくて、そっと離れた。その後、石田小十郎さんから、「孫さんが行ってしまった後、兄の東四郎はあちらこちら孫さんを探していました。10日してから、ようやく落ち着いたのです」という手紙が届いた。

 孫さん一家と中国の人々に感謝の気持ちを表したいと、日本では「石田東四郎救援委員会」が発足された。全国で募金活動が行われ、その募金が河南省の建設のためにと寄付された。また、増田町はなんども代表団を南陽市へ派遣した。94年10月から合わせて600万円を出資して、南召県に「中日友好太(太山廟郷)増(増田町)植物園」を建設、友好を象徴するたくさんの樹木や花をそこに植えた。

 一方の南陽市は、孫保傑さんの息子・孫禄峰さんをはじめとする六人の若者を、日本研修のために派遣した。奇遇だったのは、その研修中に孫禄峰さんは日系ブラジル人の留学生と知り合い、結婚したことである。

 2002年、王成香さんは招かれて日本を訪問し、養老院にいる石田東四郎さんを訪ねた。石田さんの肩をたたき、「覚えていますか?」と聞くと、石田さんはうなずきながら、涙を流した。王成香さんが出ようとすると、石田さんも立ち上がり、いっしょに着いて行こうとした。「あのときは、私も耐えられなくなって涙しました」と王さんは言う。

太増植物園の入り口に建てられた記念碑(写真・王浩)

 南陽での取材中、94年に増田町の石山米男町長(当時)から南召県に届いた、次のような手紙を見せてもらった。

 「本町の石田東四郎さんが奇跡的に帰国できたのは、孫さん一家が47年間、誠心誠意、世話をしてくださったことと、全村民の博愛精神のたまものです。……私たちは、中国の人々のこの慈愛に満ちた人道主義に深く感謝いたします。……47年来の全村民の石田東四郎さんへの温かいご配慮は、永遠に忘れることはないでしょう」(要旨)

 石山町長の言葉のとおり、この半世紀の間に結ばれた心の絆は、いつまでも記憶に残るものだろう。


南陽市について

【南陽漢画館】

 南陽は漢代に大いに栄えた都市の一つで、漢代の歴史文化の遺跡がいまも残されている。「漢代画像石」は、漢代の墓や墓地の祠堂、望楼、碑などに使われた、各種の図案を彫刻した石材のこと。南陽は、中国でも漢代画像石がもっとも多く出土したところである。

 1935年に創建された「南陽漢画館」は、2500点あまりの漢代画像石を収蔵している。敷地面積は、5万3360平方メートル。建物の後ろには、復元された典型的な漢代画像石墓が十以上、配されている。漢代社会の研究に重要な史料の一つとなり、研究や鑑賞のために貴重な価値があるとされる。

【辛夷の里・南召】

モクレン科の辛夷は、乾燥させた蕾がリューマチや風邪の症状を和らげ、鼻づまりをなくす効能がある。そのため、鼻炎や風邪、頭痛に効く漢方薬材となっている。また、香料としても、観賞用としても使われている。

 南召県は辛夷の原産地の一つで、500年以上の栽培の歴史をほこる。元・明の時代から中国でも有名な「辛夷の里」となり、その栽培地が県内の至るところに分布した。現在、辛夷の栽培面積は18万5000ムー(1ムーは6・667アール)にわたり、辛夷の木は550万本に達している。

 南召県にある辛夷の生産・加工企業は、「華竜辛夷開発有限責任公司」を筆頭として一定の規模をほこる。その製品は、すでに日本、ドイツ、アメリカなどの国へ輸出されているという。



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