中国国際友好連絡会理事 高海寛
 
思いがけない二つの再会
 
     
 
訪日中、神保町の書店街を訪れた筆者

 2004年の晩秋、私は中国国際友人研究会の代表団とともに東京を訪れ、中日関係シンポジウムに出席した。中日関係の老朋友が集まり、久しぶりの再会を喜びあった。

 訪日前、この会議に元駐中国大使の中江要介氏と佐藤嘉恭氏も出席すると耳にし、お二人との再会も心待ちにしていたが、当日、中江氏は出席できなくなり、佐藤氏も用事があって途中で退席してしまった。私は日ごろの感謝の気持ちを申し上げることができないことをとても残念に思った。

 会議の翌日、凌青・元国連大使と楊振亜・元駐日大使、そして秋岡家栄氏にお供してある会合に参加する途中、日比谷公園の前を通りかかった。園内ではちょうど「菊展」を開催していたので観賞しようと門を入ろうとしたとき、同じく入場しようとしていた老夫婦をお見かけした。

 「あのお二人はもしかすると中江夫妻ではないか?」と思った私が後ろから半信半疑で声をかけると、振り返った中江氏も驚いた様子で、「高海寛さん、なんと奇遇な!」と私の手を強く握り締めてくださった。このとき中江夫妻、凌氏、楊氏と私の五人で一緒に撮った写真は「思いがけない再会」の記念となった。

 そして次の日の夜、外出先から帰る途中、本来なら飯田橋で下車しなければならないところを、御茶ノ水まで行ってしまった。そこで飯田橋に戻ろうと御茶ノ水駅で電車を乗り換えようとした時、前方からコートを着て帽子をかぶった男性が歩いてきた。顔はよく見えなかったが、姿や歩いている様子から「佐藤氏だ!」と思った。

 またもや思いがけない再会に、私は驚きと喜びを隠せなかった。私たちは固く握手を交わし、熱く抱き合った。「なんという奇遇でありましょう。もうお会いすることはないと思っていました」と私が言うと、佐藤氏も「まさかこのような思いもかけないところで出会うとは。本当にうれしいですね」とおっしゃった。言葉は交わし足りなかったが、電車がやってきてしまったのでお別れとなった。電車が遠ざかっていくのを見送る私の脳裏には、いつまでも佐藤氏の温かい笑顔が浮かんでいた。

友好事業への多大な支持

右から中江夫妻、凌青氏、楊振亜氏、筆者。日比谷公園の菊展にて。

 世界はなんと狭いのか、なんと縁があることか・・・・・・。帰国の途中、この二つの思いがけない再会に、私の心はずっと沸き立っていた。両氏のやさしさと誠実さに感動し、中国人と中国に対する厚い思いを感じることができた。お二人と比べると、若輩な私であるが、長年親切に接してくださり、打ち解けて付き合ってくださっている。中日間にこのような友情や誠意さえあれば、友好関係が築けないはずはなく、解決できない問題や矛盾はないのではないかと私は感じる。

 両氏はとても上品で穏やかなお人柄であり、紳士的な外交官の風格を具えている。非常に高い文化的教養には深く感服させられ、今の政治家や外交官は学ぶべきところがたくさんあるだろう。日本や中国そして中日関係に対する思考は、非常に冷静で成熟したものであり、常に言行を慎んで中日関係の大局の維持に努め、中日友好事業を積極的に促進してきた。

 『中日平和友好条約』締結の際、中江氏は日本外務省のアジア局長として、佐藤氏は大平首相(当時)の秘書官として、条約締結に力を注いだ。そして1980〜90年代、両氏は相次いで駐中国大使に就任し、中日関係の発展を促進させる第一線で力の限りを尽くされた。駐中国大使離任後も、それぞれ日中関係学会の会長や日中友好協会の常務副会長を務められ、民間人として中日友好事業に奔走された。

 これまで中日関係にどんなことが起ころうとも、友好事業の発展が両国と両国民のためになると固く信じ、両国関係の改善と発展に積極的に献策してこられた。また、両国各界のさまざまな友好活動を熱心に支持し参加された。私たちが開催する中日関係シンポジウムにも何度も出席してくださり、他にも文章などをお寄せいただき、その多大なご支持とご協力には、本当に感謝の念が絶えない。

中日間の原則を固持

大使離任前の佐藤氏(写真中央)とともに。筆者は左から2番目。

 両氏は『中日共同声明』と『中日平和友好条約』の原則を固持している。中江氏は寄稿した文章の中で、「日中両国は忠実にこの二つの原則をもって自己を制約する義務がある」と強調しておられた。佐藤氏もかつて中日関係シンポジウムで、「『日中共同声明』と『日中平和友好条約』の精神を絶えず認識することは、何にもまして重要だ」と述べた。今の日本の政治家や人士たちはこのことを重視すべきである。

 1990年代、中日間の歴史問題について、中江氏は「日本は戦争責任を回避してはならず、歴史教育についてもう一度考える必要がある」と、佐藤氏は「歴史の認識問題に対して正しい姿勢で取り組み、相互の信頼関係を築くべきだ」と強調した。私はこれらの話に今でも深く印象を受けており、強く同感している。

 中江氏は大使任期中とその後に、バレエ劇『蕩々たる一衣帯水』と『鵲の橋』を創作し、中国で公演して好評を博した。佐藤氏は2004年6月に村山元首相と訪中し、大相撲公演の力添えをした。これらは、中日の相互理解を増進する積極的な働きとなった。

 私は会議や文章の中で、中日は相手の立場に立って理解しあうよう力を尽くさなければならないという中江氏の話をたびたび引用している。両氏はかつて日本の使節であり、自国と自国民の立場で中日関係を扱っており、両国間のどんな問題においても、私たちの見方と完全に一致することはない。しかし、共通点を求め異なる点を認めるという態度で、いかなる問題に遭遇しても客観的かつ冷静に対処し、中日関係の大局の維持に目を向けてこられた。現在の良好といえない中日関係においては、特にこのような態度が必要なのではないだろうか。

 最近の中日関係を目の当たりにすると、かつてのお二人の教えを思い起こす。中江氏は「どのような状況下でも、さまざまな処置をとり、両国の関係が悪化して損害を受けたり修復不可能な程度に達したりしないようにしなくてはならない」と、佐藤氏は「我々は、勝ち取ってきた日中関係を壊してはならない」と言われた。10年前、佐藤氏は李白の「長風浪を破る会ず時有り、直ちに雲帆を掛けて滄海をわたらん(好機を逃す事なく滄海に出帆出来るよう、常に帆の準備を怠りなく)」を引用して、私たちが困難を克服し、中日関係を発展させることを激励してくださった。

 お二人との偶然の再会を思い出すと、日比谷公園の満開の秋菊や御茶ノ水駅のきらきらとした星空が私の目の前に浮かぶ。中江氏はかつて、中日の間には心が通った「鵲の橋」をかけなければならないとおっしゃった。両氏をはじめとするたくさんの日本の友人たちは、中日友好の「鵲の橋」をかけるために、不断の努力を尽くしている。中日各界の人士たちも、堅固な友好の橋を築き続け、中日関係の明るく美しい春の到来を迎えなければならない。

 

 
     

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