劉世昭=写真・文 |
2300年前、河北省の中部、易水のほとりで、燕の太子・丹が秦王の暗殺を命じた荊軻を見送った際、「風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還」(風蕭蕭として 易水寒く、壮士 一たび去りて 復た還らず)というすぐれた詩文を残した。275年前、清の世宗・雍正帝は、ここ永寧山のふもとを、清王朝関内(山海関内)第2の「陵墓の地」として選んだ。つまり、こんにちの清の西陵である。
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北京の西南約百キロに、河北省易県に位置する清の西陵がある。清の雍正8年(1730年)に創建された。その後、清王朝(1644〜1911年)が崩壊する直前の1911年、最後の皇帝・宣統帝溥儀のために建設された陵墓も、じきに完成するところだったが、清王朝の崩壊により工事は中止。以来、そこは荒れはてている。 清の西陵の16カ所にのぼる建築群のなかには、四つの皇帝陵がある。つまり、雍正帝(在位1723〜1735年)の泰陵、仁宗・嘉慶帝(在位1796〜1820年)の昌陵、宣宗・道光帝(在位1821〜1850年)の慕陵、徳宗・光緒帝(1875〜1908年)の崇陵である。このほか、さらに三つの皇后陵、三つの妃陵、四つの王爵陵、内親王陵がある。ここに埋葬されたのは、4人の皇帝、9人の皇后、57人の妃、そして王爵、皇子、内親王の合わせて76人である。
清の西陵におかれた陵墓は、いずれも南向きである。中央に配されたのが泰陵で、その東側が崇陵、西側が順に昌陵と慕陵である。皇帝陵の周囲には、「后陵寝」(皇后の寝殿)と「妃園寝」が配されている。 四つの皇帝陵における建築様式や配置は基本的に似ているが、その規模や質の相違は、当時の政治・経済の状況を反映している。
清王朝が東北地方から山海関内に「入関」して以降、最初の皇帝・順治帝は、現在の河北省遵化市の昌瑞山のふもとを、みずからの陵地として選んだ。すなわち、清の東陵である。第二代の皇帝、康煕帝も東陵に埋葬された。「子が父の墓にしたがえばこそ、先祖代々繁栄する」という「昭穆の制」を清代より始めたのである。「昭穆」とは、中国古代の宗法制度(宗族を規制する根本の礼制)である。中国古代の礼書『周礼』には「先王の墓を中央におき、昭穆の制をもってその左右とする」とある。そのため宗廟の順序は、始祖廟を中央として、以下、父子の順に昭廟、穆廟とされている。左を昭とし、右を穆とし、父が昭であれば、その子は穆である。父が穆であれば、その子は昭である。このような制度も、一族の墓地葬位における左右の順に用いられたのである。
清の世宗・雍正帝は、入関後の第三代皇帝である。彼ははじめ、その祖父と父が陵地として東陵を選んだことに従っていたが、当地の地質状態がよくないとそこを嫌がり、結局は風水の占いや地質状態のよい河北省易県の太平峪を選んで、そこにみずからの陵寝・泰陵を建てた。このときから、清王朝には関内第二の皇族陵園が生まれたのだ。 泰陵は、清の西陵のなかでもっとも早期の建築であり、規模最大の陵寝である。南端の火焔牌楼(牌坊ともいう。いずれも鳥居形の門)から、北端の宝頂、地宮まで、1・5キロにわたる神道上とその両側には、石牌坊、大紅門、具服殿、石橋、華表(装飾用の巨大な石柱)、石像生(人や動物などの石像)、碑亭、隆恩門、隆恩殿、石祭台、方城、明楼など、合わせて61の建築物と彫像が配されている。泰陵の工事は八年にわたり、総工費は銀240万両以上にも上ったという。
泰陵の多くの建築物のなかで、もっとも特色のあるのが、大紅門南側の石牌坊だ。一つの皇帝陵に一つの牌坊しか設けられないという歴代の決まりを打ち破り、そこには同じ大きさの石牌坊が三つ建てられている。いずれも高さ12・75メートル、幅31・85メートル、五間六柱十一楼の様式である。三つの牌坊のうちの一つが南向きで、ほかの二つがそれぞれ東西を向いている。北側の大紅門と合わせて、四角い中庭を形づくっているのである。これは、明・清代の皇帝陵のなかでも唯一のものだ。牌坊の台座、額坊(上部の文字を刻んだ部分)には、いずれも精緻な飾りもようや竜、瑞獣(吉祥の獣)などの図案が彫刻されている。また、石牌坊の上部には、いずれも彫刻がほどこされた重さ数十トンの巨石が使われており、260年の歳月を経て、いまもなお高くそびえ立っている。
竜泉峪に建てられた慕陵は、道光帝の陵寝である。道光帝の主張によって、墓陵の工事からは聖徳神功碑楼、華表、石像生、方城、明楼、二柱門など、歴代の皇族陵が必要とした建築構造の一部が排除された。こうして慕陵は、小型の皇帝陵となったのである。しかし、慕陵はきわめて美しい皇帝陵だ。
その隆恩殿は、歴代皇帝陵のなかでも唯一のもので、他の皇帝陵と異なるところは、ペンキの彩色画で装飾しておらず、いずれも貴重な「金絲楠木」(クスノキの一種)で構築していること。その材木には、タッがうすく塗られている。天井板、門、窓、部屋の仕切りなどには、すぐれた技をもつ工匠たちにより、透かし彫り、浮き彫りなどの手法が用いられた竜が合わせて1318匹も彫刻されている。道光帝が、これほど多くの竜を陵寝に飾ったのにはわけがある。つまり、慕陵の場所は当初、清の東陵の宝華峪に指定されたが、建設してから地下宮殿の浸水が発見されたのである。そのため、道光帝はそこを取り壊して、清の西陵に再建するようにと命を下した。道光帝は、浸水は群がる竜が穴をあけたので、水が噴き出したのだろうと考えた。こうして、竜の群れを陵寝内に装飾し、そこに竜を集めて、地下宮殿が水浸しにならないようにと願ったのだ。
清の西陵の歴代皇帝陵には、さらに「第三の妙」がある。つまり、昌西陵の「回音石」と「回音壁」だ。昌西陵は、嘉慶皇帝の皇后の一人、孝和睿皇后の陵寝である。孝和睿皇后は、嘉慶皇帝の即位前には側室の福晋であり、即位後は貴妃に封じられた。嘉慶2年(1797年)、孝淑睿皇后が病のために他界し、その百日のちに、太上皇(今上皇帝の父君)の乾隆帝が、彼女を皇貴妃に封じたのである。嘉慶6年(1801年)には皇后に、嘉慶皇帝の死後は、皇太后に封じられた。 昌西陵は、孝和睿皇后が亡くなってから3年の咸豊元年(1851年)に建設された。陵寝の建築はそれほど豪華なものではないが、慕陵の優雅な風格にかなり似ている。宝頂(墓)をとりかこむ壁は「前方後円」型であり、中国の伝統思想である「天円地方」(天が丸く、地が四角い)を表している。宝頂の月台(棺前に置き、祭器を並べる台)前の神道に敷かれた7枚目の石板は、回音石だ。人がその上で話をすると、声の大きさにかかわらず、ハッキリと聞きとれるのだ。また、宝頂の後方をかこむ半円形の壁「羅鍋牆」は、回音壁である。人がその東西両側に立って低い声で話をすると、電話をかけるのと同じようにハッキリと聞こえるのである。これは、声学原理を使って建てられた中国の古代建築物である。現存するのは、北京の天壇・皇穹宇とここの二カ所にしかなく、その貴重な歴史的・科学的価値がうかがえる。
中国の封建王朝の最後の皇帝・宣統帝、つまり愛新覚羅・溥儀も、即位したのち、清の西陵にみずからの陵寝を建設した。宣統2年(1910年)、陵寝の基礎工事のくわ入れが行われたが、その一年後に清王朝は崩壊、工事は中止を迫られた。歳月が経ち、風雨にさらされ、いまでは陵寝の跡もない。溥儀の一生は、皇帝から遜帝(皇帝の辞職)、偽皇帝、戦犯、そして公民を経験するという複雑なものであった。67年、病で死去したのちに、火葬された遺骨は北京の八宝山革命公墓の遺骨堂に納められた。95年、夫人の李淑賢さんが彼の遺骨を、河北省易県に私設した陵園「華竜皇家陵園」のなかへ移した。陵園は、清の西陵の文物保護区内にあり、光緒帝の崇陵とは目と鼻の先、たがいに向かいあっている。ここは、世界文化遺産のエリアには含まれていないが、「自分が死んだら西陵に埋葬してもらいたい」という溥儀生前の願いを、果たしたものなのである。 |
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