【あの人 あの頃 あの話】E |
北京放送元副編集長 李順然
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「天に順う」に造反した男
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早稲田大学卒業の知日派の康大川さんは、1953年に『人民中国』が発刊されたときから、1986年に定年退職するまで、そのほとんどの期間、この雑誌の編集長だった。 康大川さんの名前は、もともと「康天順」だった。孟子の「天に順う者は存す」といった言葉にルーツがあったのだろう。 だが康さんは、「天に順う」を好しとせず改名した。まず「天」から頭の上で自分を押さえつけている横棒を一本取り去り「大」とし、また「順」からは「頁」を取り去って「川」とし、大川としたのだ。 康さんはこの名前が好きで、当時の思い出を綴った文章で「改名したときはとても嬉しかった」と書いている。滔々と流れる大河(大川)のように堂々と生きていこうと決意したのだろう。 ところが、この改名が例の「文化大革命」のときには、康大川批判に油を注ぐことになった。当時、康さんのいわゆる「罪名」は、「資本主義の道を歩む実権派」だったのだが、この「大川」という日本人のような名前も災いして、いろいろ面倒な問題をひき起こしたそうだ。 しかし、康さんは道理のない批判、闘争には、ぜったいに頭をさげなかった。「康大川打倒」をさけぶ造反派を前にして「いわれもなく人をののしるのはやめたまえ。私の前に出てきて、堂々と弁論したらどうだ」と胸を張ったエピソードも伝えられている。「大川」という名前についても、「わたしはこの名前がとても気にいっている。どこが悪いのだ」と言ったという。 定年退職を前にして康さんは、「人生に理想多けれど、真理は只一つ有るのみ」ということばを書いて、わたしに贈ってくれた。「これがわたしの信条、この信条にたよって邪悪と闘い、困難を乗り越えてきた……」という文字が添えてあった。(カット参照)。 「文化大革命」の10年、この信条を守り抜いた康さんの姿は、周囲の心ある人たちに感銘を与えた。
康さんのこうした信条は、30余年にわたる『人民中国』編集長の仕事の中でも貫かれてきた。康さんはよくこう言っていた。 「コネで送られてきた原稿は、どんなに偉い人の紹介でも、つまらなかったらぜったい使うなよ。『人民中国』に載せる原稿の唯一の条件は、日本の読者に喜ばれるかどうかだからな」 康さんは、それを30余年にわたって実行した。どんなときも「読者は神様」という姿勢を崩さなかった。この信条は代々受け継がれ、『人民中国』を半世紀以上生き続ける、中日友好の長寿雑誌にしたのだろう。 去年の北京の夏は異常な暑さだった。病床にあった康さんは、この暑さを乗り越え秋を迎えた。が、澄みわたった北京の秋の空の下で静かに息を引き取った。 「天に順う」を好しとせず、真理を求めてひたすらわが道を歩んだ90年の生涯だった。康さんは堂々と胸を張ってあの世に逝った。 |
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