|
魏壁=写真・文 |
智仁街。ここは、大連市解放路東側の坂道に建てられた、和風の住宅建築群である。いや、あったと言うべきだろう。今は取り壊されて、姿を消したからである。 この住宅群は、日露戦争が終わった後、日本の将校用住宅として建てられ、百年の歴史があった。最初の名前は「桜花台」だったが、解放後「智仁街」と名を改めた。 取り壊される前に、住民たちの話を聞いた。
1959年に智仁街松風巷に引っ越してきたという耿じいさんは、黒い石の板を敷き詰めた自宅の門の前に座り、壁に寄りかかって日向ぼっこをしながらこう言った。 「今年、私は94歳、妻は84歳。智仁街は300棟余り、あわせて6、700戸の人が住んでいます。すべての人の名前を知っているとは言えませんが、ほとんどの人と親しくしています。子どもたちは、わたしのことを『耿じいさん』と呼んでいるよ。隣近所と付き合わない分譲マンションに引っ越したら、話し相手もいなくなる。だから引っ越したくないよ」 松風巷16号の戸主の王さんは、解放直後に、ここに引っ越してきた。ここではかつて「上佐」という日本人軍医が住んでいたという。王さんは小さい頃、日本人の子どもたちといっしょに登校したり、遊んだりしたことを、今でもはっきり覚えている。門前の大きな棗の木は、日本人が植えたもので、大きく枝や葉を茂らせていた。
智仁街の家屋は、実は、純粋な和風とは言えない。そのほとんどは洋風と和風とが結びついたもので、専門的な言い方では「和風欧式」である。日本の建築家は、世界の建築芸術から栄養を吸収し、それを日本民族の建築理念と結合させたのである。こうして建てられたここの住宅は、百年の変遷を経た後、次第に、大連市の百年の歴史を示す実物の証拠となった。 日本人が去ったあと、大連市の市民たちが次々と、智仁街に引っ越してきた。今年83歳になる韵さんは、最初に越して来た住民の一人である。彼はこう言う。 「それは1947年のことでした。当時、日本人はまだ完全には引き揚げてはいませんでした。情勢は依然として緊張していました。隣にはなお日本人が住んでいましたが、お互いに親しくすることはなく、実は互いに警戒していたのです」
日本人は、7、8日ごとに、数回に分かれて引き揚げていった。家を売って金に換えた人もいたし、こっそりと骨董品やアクセサリーなどを埋めた人もいた。また一部には、残留した日本人もいた。 かつてはこの将校居住区には、普通の大連市民は入ってはいけなかった。日本が降伏したあと、政府はこれらの和風建築を保護するよう命じ、市民はここに引っ越して住むよう奨励された。このため智仁街は、次第ににぎやかになっていった。
苗じいさんは、門の前に置かれたソファーに、のんびりと座っていた。彼の一家は、松風巷63号の小さな家に住んでいた。「引っ越してきたばかりのころ、地下室には、日本人が残していった鉄砲の弾や対戦車用の手榴弾が一箱ありました。子どもが面倒を引き起こすといけないので、上納しました」と言った。 苗さんによると、彼と同い年ぐらいの「小野茲柯夫」という日本人が、毎年、この家を訪れてきたという。「小野」さんは、この家で大きくなった。初めて来た時、彼は、寝室内にある赤い大きな柱に触りながら、涙を流した。この赤い柱が、彼に少年時代の限りない記憶を呼び起こしたことは明らかだった。「昨日の敵」が「今日の友」となった。別れ際に2人は、互いの電話番号を交換した。
半世紀以上経って、大連市は、天地を覆すほどの大きな変化が起こった。智仁街にある広い和風建築地帯も、ようやく歴史の終点を迎えた。 この数年、ここに住んでいる人はほとんど、年寄りや子ども、レイオフされた労働者、外来の出稼ぎの人たちになった。ちょっとお金のある若い人たちはみな、近代的な分譲マンションに引っ越していった。 智仁街は、巨大なゴミタメとなってしまい、壊れた設備や流れる汚水があちこちに見られた。古い住民たちは、収入を増やすため、もとは整然としていた庭に小屋を建て、出稼ぎにきた人たちに賃貸しした。屋上も路地や庭の隅も、ガラクタでいっぱいだった。 2004年10月30日、智仁街は正式に取り壊しが始まった。ここに長く住んでいた住民は、その時の情景をこう語っている。
「政府の通知が届いた翌日から作業が始まりました。ゴミの回収業者や日本の骨董を収集する人、トラックを貸す業者らが集まってきて、どの道路も身動きできないほどでした。智仁街がこんなに壮観だったことはかつてありません」 取り壊しが近づいても、多くの住民は、住み慣れた住宅への感情を断ち切ることができなかった。あるお婆さんは、平地にされた住宅の廃墟をぼんやり眺めていた。昔ここで暮らした日々が、再び脳裏を掠めたのだろう。 松風巷18号で生れ、育った李という娘さんは、箸でお碗の中の食べ物をかき回したまま、黙って涙を流していた。
家の取り壊しと引越しのあわただしさの中で、大多数の住民は、一枚の写真さえ撮ることができなかった。ただガタガタと揺れる引越しの車から、住み慣れた家の跡を何度も振り返って見るだけだった。 私は、間もなく家を出てゆく住民を引っ張ってきて、一人ずつ、さらに一家ずつ、記念写真を撮ってあげた。そして彼らにその写真を郵送するため、新居の住所を書き留めた。彼らが永遠に、ここの住んだ最後の記憶を保存できるように――。
|
|