黄河の両岸を緑に
若い世代がともに友好の木を植える
 
                                           張春侠=文・写真

             
2004年度中日青年霊宝市生態緑化プロジェクトの石碑の除幕式              

日本東京青年会議所(略称は「東京JC」)は五年前から、中華全国青年連合会(略称は「全青連」)と協力して、河南省霊宝市の黄河のほとりで、植樹を続けている。今年も3月16日から22日まで、58人の緑化協力代表団(名誉団長・田中常雅「日中友好の会会長」)が全青連の招きで訪中、中国の青年たちといっしょに、友好の苗木を一本一本植えた。植えられた木は、黄土地帯を緑化するだけでなく、参加した中日両国の若い人たちの心に、相互理解の「グリーンベルト」をつくることだろう。

「母なる河を守ろう」

 霊宝市は河南省の西部にあり、陝西省、山西省と境を接するところに位置している。ここには中国人が「母なる河」と呼ぶ黄河が滔々と流れている。霊宝市の総面積は3011平方キロだが、水土が流失している面積は1440平方キロに達する。黄河中流域の中で、水土の流失がかなりひどい区域の一つである。

西村剛敏理事長(左)は、自分たちの手で霊宝市の環境を改善したいと願って活動している

 黄河沿岸の生態環境を改善するため、2000年、東京JCと全青連は共同で、中国の環境保護を援助する日本の「日中緑化交流基金」(いわゆる「小渕基金」)に援助を申請し、河南省霊宝市で「母なる河を守る――中日青年生態緑化協力モデルプロジェクト」をともに建設することになった。

 目下、このプロジェクトはすでに、前半の5年の植林事業を終え、累計で820ヘクタールを造林した。これによって毎年、3万7000トンの土壌の流失が食い止められたという。かつては一面、黄砂に覆われ、崩れていた黄河の土手は、いまやうっそうと草木が茂っている。

 植樹に参加した大人の団員は38人。彼らのほとんどは25歳から40歳までで、みな自費で参加した。日本から植樹にやって来る人たちは、お年寄りが多い。この団のように若い人が中心となった植樹団は少ないうえ、中国の大学生といっしょに木を植えるのが特徴だ。

中日両国の学生たちは、友好の気持ちを抱きながら、一本一本、苗木を植えた

 4年前、団長として参加したJC前理事長の塩沢好久さんは、自ら植えた30センチほどの苗木が、今、3メートル以上に育ったのを見て、胸を熱くした。

 58歳の都築幸裕さんは、代表団の中で一番、年がいった人で、今回は3回目の参加だった。ただ前の2回と違うのは、今回は奥さんを連れて来たことだ。植樹活動が終わったあと、都築さん夫妻は黄河の岸に、一本の「夫妻樹」を植えた。

 呉祥慶さんは、日本で洋服屋を営んでいるが、今回の活動を参加するために、わざわざ自分の商売を親戚に頼んでやって来た。

 5年連続で参加した片桐俊一さんはある晩、東京JCの専務理事の森山裕之さん、東京大学の学生の天児泰隆君とともに、霊宝市の普通の市民である林宝平さんの家に招かれた。豪放磊落な森山さんは、林さんと盃を交わし、たちまち「老朋友」になった。

中国語ができる林夏名さんは、まるでスターになったようだ。子供たちは次々にサインをねだった

 その日はたまたま、林さんの娘、楠楠さんの16歳の誕生日だったので、みんないっしょに「ハッピーバースデー」を歌い、林さんの奥さんが作る手料理に舌鼓を打った。片桐さんが「花巻」(マントーの一種)を絶賛すると、奥さんは、「花巻」をいっぱい詰め込んだ袋をお土産に持たせた。

 天児君は覚えたての中国語で「本当にうれしい。東京を出発するとき、『政冷経熱』といわれる現在の日中関係を考えると、中国の人たちが私たちにどんな態度をとるか、心配でした。しかし、中国に来てみたら、みんな友好的で、本当に嬉しかった」と言った。

 片桐さんは、すでに中日交流活動に15年間も従事してきた。彼は、植林は唯一の目的ではなく、植林を架け橋として、両国の青少年間の交流を進めることが必要である、と考えている。「特に日中関係が厳しい状態にある中で、民間交流で友好を推進する必要がある。人々が広い心でこの交流を理解し、さらに多くの人々が、日中関係を正確に認識する。それがこの活動の究極の目標です」と言うのである。

相互理解深めた大学生たち

日本の大学生たちは、中国の小学生に、真剣に鶴の折り紙を教えた

 植樹団の中で、もっとも活発に活動し、注目を集めたのは、16人の大学生たちである。彼らは十数校の有名大学の学生で、多くの参加申込者の中から、論文の試験と面接試験に合格して、選抜されたのだった。

 今年2月、東京JCはインターネットを通じ、黄河の植林を各大学の学生に呼びかけた。これに応えて千人以上の学生が参加を申し込んできた。そして「日中関係の改善に対する提案」や「環境保護の協力に関する提案」をテーマとした論文を、250人以上が提出した。

 真冬の寒い日に行われた試験は、午後1時半から6時までの長丁場だったが、一人として途中で棄権する学生はいなかったという。

 東京JCは、2001年からこの事業への学生の募集を始めたが、第1期は12人の募集に対して60数人が応募したに過ぎなかった。「以前に比べ、ますます多くの日本の若い世代が、日中関係や両国の環境保護の交流に、深い関心と期待を寄せるようになってきている」と東京JC日中友好の会の島影幸有会長代理は述べている。

西安の古い城壁で、学生たちはその雄大さに、飛び上がって喜びを表した

 日本の大学生たちは中国の16人の大学生と肩を並べて、黄河のほとりで一本一本、中日友好を象徴する苗木を植えた。

 植樹を終えた後、中日両国の大学生たちは座談会を開き、中日両国の政治、経済、環境保護などの問題について突っ込んだ話し合いをした。

 学生同士、理解し合うにはそう時間がかからない。初対面でも彼らは、それぞれ相手を探して、英語と中国語、それに身振り手振りを交えて熱のこもった交流をした。

 早稲田大学から参加した三浦崇広君は、中国へ来る前に、東京で中国語学習用の本を買い、それを肌身離さず持っていた。だからすぐに「好吃、謝謝」などを話せるようになった。中国の学生たちと話すときには、ナップサックから英語の辞書を取り出して単語を調べながら、中国語を交えて話し合った。

人と人の触れ合いこそ大切

歓迎の晩餐会で、日本の大学生たちは、中国語で中島美雪の『糸』の詩を朗読して、中日両国の美しい未来を願った

 3月19日の午前、中日両国の大学生は霊宝市第一小学校へ参観に行き、そして、小学生にそれぞれ授業を行った。

 教室に入る前、日本の大学生たちは、マジシャンのように、前から準備していた和服にすばやく着替えて、みんなの目を引きつけた。多くの日本の学生は中国語ができないので、中国の血が4分の3入っている林夏名さんが授業を担当した。

 彼女は最初、小学生に折り紙で鶴を折ることを教えようと思っていた。ところが子どもたちに聞くと、異口同音に「できます」という。予想外の反応に彼女は「それでは、みんなでもう一度復習しましょう」と言うほかなかった。

 日本の学生たちは、林さんの授業がうまくいくかどうか、手に汗を握って見守っていた。「子どもたちは折り紙をすでに習っているので、果たして興味を持つかどうか」と心配したのだ。

 しかし間もなく、子供たちは、日本の先生が教える折り方と自分たちの折り方は違い、できあがった折り鶴も、大きな差があることに気づいた。10歳になる李暁宇ちゃんは「日本の先生は折った鶴は太っている。私たちの折り鶴は飛べます」と面白がった。

 授業は瞬く間に終わった。子供たちはみな名残を惜しみ、別れたくなかった。9歳の許佳源君は、自分が準備したプレゼントを先生に贈り、先生に「サインして」とせがんだ。最後に、オヤ美峰校長が、32名の中日両国の大学生に、彼らを「校外指導員」とする招聘状を授与した。

林宝平さんの家を訪問した片桐俊一さん(左から2人目)は、奥さん(左から3人目)の手造りの料理に感激した

 4日間の短い交流活動が終わり、別れの時がきた。青山学院大学から参加した柴田賢一君は「今回の活動は、おそらく私の一生に影響を与えるものになるでしょう。私たちは中国の大学生たちと友情で結ばれました。そして私たちは、両国の青年の交流や相互理解を進めなければならないという責任感を持つようになりました」と述べた。

 北京理工大学から参加した羊強振君と早稲田大学の三浦君はしっかりと抱き合い、二人の目に涙があふれた。女子学生たちも、声をたてないで泣いていた。

 何度、促されても、彼らは名残惜しくて抱き合っていた。そして互いに誓い合った。「私たちは永遠に友達です」と。



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