農家のバイオリン製作室

かつては鋤を握っていた耿国生さんであるが、バイオリンの製作技術を学んでからは、他の東高村鎮の農民と同じように豊かになった

 北京市東北の郊外に平谷区という区がある。東、南、北の三面を山に囲まれ、中央はその名の通り平坦な谷状のくぼ地となっている。平谷といったら、大きくて甘く、見た目も美しい「平谷大桃」の産地として、北京でそのことを知らない人はいないほど有名だ。その平谷に位置する東高村鎮は桃の主産地ではないが、農業を主産業とし、昔から野菜を栽培してきた。ここで栽培している「油扁豆」(インゲンマメの一種)は、東北人が大好きな野菜で、夏から秋にかけては「油扁豆」を買い付け、東北地区へ運ぶ商人で賑わう。

耿国生さんはインターネットを通して、バイオリンの販路を拡大している

 耿国生さん(43歳)は、そんな東高村鎮の南テン頭村に住む農民だ。耿さんの家は村道の傍らにあるごく普通の家屋。周辺の農家と同じく、小さな門がある粗末な古い家だ。唯一違うのは、門の外に「耿国生のバイオリン製作室」と書かれた看板がかけられていること。耿さんはバイオリンを主として、ビオラ、チェロなどの製作を生業としているのだ。

 田畑を耕して食を得ている農民と「楽器の女王」であるバイオリンとは、どうにも結び付かないと思う人も多いだろう。筆者のこの疑問に、耿さんは「私は確かに平谷の村で生まれ育った農民ですよ。たくさんの農作物を作ってきました。野良仕事ならすべてやったことがあります」と笑いながら答えた。

耿国生さんの影響を受け、妻の劉秀さんもバイオリンの製作技術を学んだ

 自宅の南側の部屋がバイオリンの加工作業場となっていて、数人の従業員が働いている。北側の部屋には、まだニスを塗っていない未完成のバイオリンが、壁にかかっていたり机の上に並べてあったりする。その奥の部屋の壁には、さまざまな色や模様の完成品がかかっている。それでも、ベッドやパソコンを置いた食卓があることから、そこは住居であることが見てとれた。

 「このパソコンは、顧客との重要な連絡手段なのです」と耿さんは説明する。ここ2〜3年、お客がやってくるのや友人の紹介をいたずらに待っている販売方法を改め、インターネット上での販売で顧客拡大に努めている。今では、ネット上での販売量は販売総量の50%を占めるほどになった。

 パソコンやインターネットのことは息子にはかなわない。そこで、この方面は17歳の息子・耿佳君に頼っているところが多い。息子は昨年、中学校を卒業した後、家で耿さんについてバイオリン製作を学び始めた。腕前はかなり上がったが、耿さんはまだ満足していない。息子には英語をしっかりと勉強させ、顧客との交流を便利にしたいと考えている一方、将来は国外へ行かせて系統的なバイオリン製作を学ばせたいと思っている。しっかりと学べば、一生の技術になるからだ。

丹精をこめてチェロを作る東高村鎮の伊斯曼楽器有限公司の従業員

 妻の劉秀さんは、穏やかで素朴な農村婦人である。「夫は頭がよくて手先が器用な人なのです。農業も上手だったし、その後、町の農機具工場で働いていた時も、鉛筆工場で材料の仕入れを担当していた時も、すべて上手くやっていました。バイオリン製作も方々で人に習い、私や息子は彼に教えてもらっているのです」と耿さんをとても尊敬している。

 耿さん一家は現在、バイオリン製作だけで生計を立てている。家の土地はすべて耿さんの兄にあげてしまった。現在の収入について劉秀さんは、「かつて農業をしていた時とは比べようになりません。その頃は家にお金などなかったのですから」と正直に語った。今では平谷区中心の市街地に3LDKのマンションを買い、村にある家は主にバイオリン製作のために使っている。現在の忙しくて不規則な生活について不満を感じるどころか、「私たちには二つの家があるのです」と誇らしげに話す。

小さな工場が大きな企業に

華東楽器有限公司は東高村鎮で最大の私営のバイオリン製作企業

 東高村鎮でバイオリン製作に関わっている農民は、耿さん一家だけではない。全鎮の1万人(労働力人口)のうち、3000人がこの仕事に従事している。

 1980年代、農村は生産請負制を始め、農民の生活は大きく変化した。しかし、東高村鎮の「人が多い割に農地が少ない」という矛盾はずっと解決されなかった。限られた少ない土地での耕作では、農民の収入を上げることは難しく、生活レベルも低いままだった。

「バイオリンを習うことでバイオリンがさらによく理解できます。このことは製作のためにも重要です」と話す耿国生さん

 国家の政策上の支持を受け、当地の農民は郷鎮企業を設立し始めた。しかし、代々土地を耕してきた農民たちがどのような企業を興せば発展できるのか?いろいろな試みがあったが、成功した者もいれば失敗した者もいた。

 80年代後半、物質生活のレベルは目に見えて向上し、精神生活への追求が始まった。当時、大都市では子どもにピアノやバイオリンなどの楽器を買い与え、音楽や楽器演奏を習わせることがブームとなっていた。楽器の売れ行きは好調で、需要が供給を上回ることもあった。

 1988年、東高村鎮の元幹部は、北京の楽器工場で働いた経験を活かし、十数人の農民を集めて東高村鎮で初めての楽器工場――華東楽器工場を設立した。そこでは、バイオリンの模型や鍵盤楽器の練習用鍵盤、ピアノの鍵盤、そして各種の部品などの製作から、楽器製作を開始した。しかし十数人の農民たちは、楽器製作の経験がなかったばかりか、これらの楽器を見たことさえなかった。そこで、工場の存続と発展のため、専門家を招いて指導を受けることにした。

東高村鎮には、劉長明さんのように30数人の従業員を雇い、華東楽器有限公司の部品加工の下請けを専門に行う家庭作業場がたくさんある

 当時、北京バイオリン製作工場の技術者・戴洪祥氏はドイツのカッセル国際バイオリン製作コンクールで金賞を獲得し、その名を知られるようになっていた。そこであらゆる方法を講じて、戴氏と同コンクールの技術賞で第9位となった王崇貴氏を技術指導員として招いた。

 専門家の指導のもと、農民たちが一生懸命に腕を磨いたおかげで、この楽器工場は存続することができ、しだいに大きく発展していった。93年には、学生の練習用バイオリンの年間生産量は1万台となり、95年にはさらに増えて3万台となった。95年以降、毎年の生産量はほぼ40%以上の伸び率で増加した。

 小さな工場が、従業員700人を抱える華東楽器有限公司となった。20年近くの間に、楽器製作の経験を蓄積し、国際的な最新の製作技術と設備を導入して大量の熟練工を養成した。今では中国北方地域で最大の生産規模を誇り、各種各等級を揃えたバイオリン専門生産企業となった。現在、同社の年間生産量は15万台、そのうち90%が、欧米や東南アジアなど30以上の国や地域に輸出されている。

暮らしを変えたバイオリン工場

80年代、東高村鎮の村人たちはバイオリン製作の大家だった戴洪祥さんの指導を受け、豊かな道を歩み始めた

 バイオリン工場の大きな発展は、東高村鎮すべてに利益をもたらした。現在、全鎮には大きなものから小さなものまで、十数社のバイオリン企業があり、「バイオリン村」として名を馳せている。

 工場に勤める人々の大多数は当地の農民だ。彼らは都市の労働者と同じように月給をもらう。その額は約千元。当地の農民にしてみれば、比較的高収入である。バイオリンの製作は主に手作業なので、多くの部品を在宅加工することができ、その収入も相当なものである。

伊斯曼楽器有限公司で楽器を選ぶ日本からやって来た客(写真提供・陳祖華)

 克頭村の劉長明さんの暮らし向きもなかなかのもの。3人の子どもがいて、一番上は高等専門学校を卒業し、下の2人はそれぞれ高校と中等専門学校に通っている。自慢の子どもたちだ。「子どもたちに順調に教育を受けさせることができたのは、すべてバイオリン工場のおかげです」と劉さんは話す。

 劉さんの妻・劉海玲さんは1990年から、華東楽器工場に勤め始めた。師匠から技術を学び、バイオリンのヘッドスクロール(頭の部分)の作り方を覚えた。翌年からは、工場から家に材料を運び、自宅でヘッドスクロールの加工を始めた。夫も師匠について作り方を学び、夫婦揃って一緒に仕事をするようになった。自宅の加工作業場をだんだんと拡大し、今では、30人の従業員を雇っている。華東楽器工場に年間10万個のヘッドスクロールを納品していて、年収は5〜6万元に達する。

 ヘッドスクロール加工の最大の収益は、3人の子どもに十分な教育を与えられたことだと劉さんは言う。農業をやっていた頃は夫婦2人の年収がたったの7〜8千元しかなく、3人の子どもすべてを学校に通わせるのは不可能だったのだ。

伊斯曼楽器有限公司は2002年、フランクフルトの楽器博覧会に自社製作のバイオリンを出品した(写真提供・陳祖華)

 バイオリン工場が増えるにつれ、その製作に関わる人もますます多くなった。東高村鎮の農民たちはバイオリンの一般常識や材料、製作上の注意点などをだんだんと知るようになった。そして、耿国生さんのように「頭がよくて手先が器用な人」は、他の人と違うことを考え始めた。

 耿さんは99年までの3年間、郷鎮企業の鉛筆工場で仕入れを担当していて、職業的に木材と深く関わっていた。そこで今の仕事を始めてからも、しだいにバイオリン製作の材料に注意するようになった。この道に入ってまだ日は浅いが、周りの工場の技術者や従業員、購入に来る顧客から、関連知識や技術を学び、自己流の製作方法を模索した。

 耿さん一家の3人と6、7人の従業員で、年間千台以上のバイオリンを製作し、そのうち90%以上は国外に輸出されている。耿さんは自分が作るバイオリンの品質はかなり高いと自負している。「私の製作室は小さく、生産量や従業員数では大きな工場にかないません。そこで、品質で勝負しているのです」

自己ブランドの確立を

伊斯曼楽器有限公司のバイオリン製作所の従業員は、ほとんどが近辺の村や鎮からやってきた農民である

 東高村鎮産のバイオリンの世界市場シェアは、すでに約30%を占めている。しかし、いくら「バイオリン村」と名声が高く、製造技術が良くても、自分たちのブランドを持っていないので、販売価格は非常に低い。東高村鎮のバイオリンを安く仕入れ、世界的に有名なブランドと偽って転売し、多額の利益を得ている外国のバイヤーもいる。非常にやるせなさを感じる現実であるが、事業の発展初期には、必ず通らなければならない道なのかも知れない。このような状況を変えるためには、まだまだ多くの努力を続ける必要がある。

 平谷区政府は2003年から、当地に「北京楽器城」を建設し始めた。すでに十数社の楽器生産企業がこの楽器城への参入を決めており、同政府は、2008年までに40社を誘致する予定。その頃には、東高村鎮は自己ブランド確立のためにさらに前進し、農民たちがより幸せな生活を送っていることを期待したい。



 

 ▽平谷とは北京市の郊外にある区。人口40万人、面積1075平方キロ、そのうち山間部、半山間部、平原が占める割合はそれぞれ3分の1ずつ。町の住民は11万人、農民は29万人。
 
 ▽中国の現在の3大バイオリン生産地は北京市平谷区、江蘇省泰興市、広東省広州市。年間総生産量は約60万台で、大部分は国外に輸出される。

 ▽メープル(カエデ科の落葉広葉樹)はバイオリン製作に欠かせない材木。かつてはすべて輸入に頼っていたが、1990年に中国でも発見され、これによってバイオリン製作は大きく発展した。材料と労働力が安いため、中国産のバイオリンのシェアはますます拡大し、現在、中国はバイオリンの生産量、輸出量ともに世界トップ。

「バイオリン村」の名を持つ東高村鎮で作られた各種のバイオリンは、都市の楽器店にも並べられている(参考データ)


  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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