|
「柏抱楡」 |
北京で最も早くから人類が住んだ地帯の一つは、永定河上流域である。これは西から山岳地帯を抜ける重要なルートであり、今でも千年以上続いてきた村が残っている。1996年の霊水村は、時に埋もれたようなたたずまいだった。泥道沿いに行くと石造りの家々や、崩れかけた寺の残骸や、驚くほどの大木が何本も生育しているのにぶつかる。
石段伝いに人口700人ばかりの集落の裏手に登り、私は村の神社仏閣を探した。木立から受ける感じでは、おおざっぱに見て村は10世紀遼代からのようだった。西暦992年の石柱にもこの村について言及した銘文がある。地元の人の話では、現在の村の形態は基本的に元の時代から変わらず、家の多くは16世紀からのものである。
|
ロバの力で粟を挽く石臼。村中の家で代わる代わる利用されている |
かつての京劇舞台跡にぶつかったとき、私は村落共同体の中心を発見した。恐らく祭には、旅芸人の舞台を見にほとんどの村人がここに集まったのだろう。南に舞台、北の端は「南海火龍」に捧げた廟、その廟を背にして、人々はその中間にあるこの中心場所に集まったことだろう。老朽化した門が、立派な樹木の茂った廟の境内に通じていた。老桧の幹の真ん中はウロになっていて、そこに若木――といっても樹齢300年、10メートルもある楡なのだが――が宿を借りていた。地元の人たちはこの樹を「柏抱楡」(楡を抱く桧)と呼んでいる。近くに別の風変わりな一対があり、「柏抱桑」の名の示すとおり、幸せな恋人同士がお互いの腕に身をよせている風情である。村人の話によると、白い桑が桧の緑と一緒に垂れるときが一番美しいという。
私は、一軒の家の中庭に入って行った。住人は先祖が使っていたのと同じ道具を使っていた。水槽や食物を蓄えておく素焼きのつぼなどが、家の壁やスレートの屋根を突き破って茂るウリのつるの陰に置いてあった。彼らは、独特の洗濯石の上で衣服を打つ木づちや、脱穀の際に用いる大きな殻竿を見せてくれた。戸外の石段の上では、近所の人たちが暖かな秋の陽射しの中に座っていて、纏足をした95歳の老女が、まだ自分の食事は自分で作ると自慢した。
さらに登っていくと、村の泉に捧げられた寺をしのんで山門だけが残っていた。木製の扉の陰から頭を突き出して少女たちがくすくす笑っていた。寺自体は今や想像するしかなかったが、堂々とした風格のある樹木がその場所に品位を添えていた。お堂のあった場所に間に合わせの建物が建てられ、村の学校になっていて、退職した先生が周囲を案内してくれた。「この樹は寺が建てられたときに植えたものと思いますが、はっきりしませんね。霊水村には、一時は神社仏閣が15もあって、村の内外にひしめいていたのですよ」。彼は村の歴史をなおも語り、次いで珍しいイチョウの樹を指さした。その樹は親木に縦に挿木した奇妙な1本の枝にしか実がつかない。
|
村の中にある老桧。かつてこの地には寺院があったことを示している
|
遠くに別の老樹、がっしりした太い桧が、粟とトウモロコシの畑を背に逆光のなかに立っていた。「霊芝柏」の名で知られるその樹の存在によって、そこにも今は失われた寺院があったことがわかる。中世の石畳の路地の迷路を抜けて戻ると、村の入口近く、彫像のように立つ1対の槐に出くわした。広げた枝の下では、新たに穫り入れた雑穀の向こうで、1頭のロバが素朴な石臼を曳くために、繰り返し円を描いてとぼとぼと歩いていた。それは時を超越した霊水村の往時の姿だった。(訳・小池晴子
五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より)
|