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蔡名照=文 于明新=写真 |
中日両国がともに発展し、いっそう友好関係を深めていくために、中国国務院(政府)の新聞弁公室代表団は、2004年12月6日から15日まで、日本を訪問した。団長は趙啓正・国務院新聞弁公室の主任。私は副団長だった。 私たちは日本滞在中、多くの日本の友人に会い、率直に意見を交換した。心のこもった交流や感動的な出会いもあった。新しい文化交流も芽生えた。この旅で、私には多くの収穫を得た。そのいくつかを紹介したいと思う。 海を渡る孟子 今回の訪日で、私たちは、京都の有名な私立大学である立命館大学を参観した。数年前、同校が多くの中国人の留学生を募集することを知った趙主任は、とくに同校の図書館に、600冊余りの中国の図書を贈った。それに感謝するため、立命館大学が、私たちを招待したのだった。
立命館大学のキャンパスは、京都に近いの美しい琵琶湖のほとりにある。学内の最新設備を参観したあと、座談会が開かれた。川本八郎理事長の紹介によると、立命館大学は100年以上の歴史を有する日本の名門大学である。毎年、学生の応募者数は10万人を超え、このような私立大学は早稲田大学と立命館大学しかないという。 「どうして立命館という名前がつけられたのか」と私は興味を持った。なぜなら「立命」は、孟子の言葉だからである。 果たせるかな、川本理事長の答えはこうだった。「大学が創立されたとき、孟子の『修身以立命』という言葉が、建学の方針と原則を的確に表しているので、それが校名になったのです」 中国古代の大思想家、孟子は、『孟子・尽心編』の中でこう述べている。
「その心を尽くす者は、その性を知るべし。その性を知れば、則ち天を知るべし。その心を存し、その性を養うは、天に事うる所以なり。殀寿貳わず、身を修めて以てこれを俟つは、命を立つる所以なり」 ――自己の本心を十分に発展させた人は、人間の本性を悟るだろう。人間の本性を悟れば、また天命を悟るにちがいない。なぜなら、人間の本性を育てることが、天に奉仕することであるからだ。短命でもよく、長命でもよし、道徳を修行しながら、天命つまり寿命の尽きるのを静かに待っているのが、安心立命の根本であるからである。(貝塚茂樹訳『孟子』) 校名を孟子の言葉からとったのに、立命館大学には、孟子の像はない。「それなら、私たちは、立命館大学に孟子の像を贈ったらどうでしょう」と私は趙主任に耳打ちした。趙主任はうなずきながら「いい提案だ、いい提案だよ」と言い、川本理事長と別れの握手をしながら、孟子像を贈る提案をした。
川本理事長は大変喜んだ。孟子像ができあがったら、私たちは再び、孟子の像とともに、立命館大学を訪れる、と約束した。 帰国後、私たちは孟子像を作る仕事を、孟子の故郷である山東省の新聞弁公室に依頼した。そして今年3月、孟子像の雛型ができ上がった。立命館大学の坂本和一副学長が北京に来て、山東省側と孟子像の細部について最終的な打ち合わせをした。 孟子像は今年5月、日本へ運ばれ、7月には、私たちは再び日本を訪問し、孟子像の落成式を行うことになっている。中国の大思想家である孟子が、中国人民の友好の気持ちを携えて、2000年の時空を超えて日本に渡る日も近い。 若手の国会議員と語り合う 中日関係が「政冷経熱」と言われるようになって久しい。両国の経済関係は順調に発展しているのに、政治関係は冷えてしまっているという意味である。これは中日双方にとって望ましくないことだ。この事態を打開するにはどうしたらよいのか。そのためには、日本の若い人たち、とくに若手の政治家たちに、中国をよく理解してもらい、誤解を無くしてもらうことが大切だ――そういう思いから、15人の日本の若手国会議員との座談会が開かれた。 会場のホテル・ニューオータニに集まったのは、自民党、公明党、民主党、共産党、社民党などに所属する議員で、ほとんどが3、40代の若手。いずれも日中友好議員連盟のメンバーであった。 自民党参議院議員の林芳正氏が、まず発言した。「現在の日中関係は『政冷経熱』といわれるが、最近では『政冷』がすでに『経熱』に影響を及ぼし始めているという言い方もあります。目下、最大の問題は、小泉首相の靖国神社参拝です。中国はとくに日本をドイツと比較しますが、大多数の日本人は、ドイツがどのようにしているかを知らないのです」
この発言に続いて各議員がそれぞれ短く発言をした。態度は友好的だったが、雰囲気はやや重苦しかった。このとき、趙主任がこんな話を始めた。 「中日両国は近隣で、両国の友好は双方に利益があります。例えば、日本の歴史上、多くの遣唐使が中国へ来て勉強し、中国の文化の成果を持ち帰りました。日本の文字は、中国の漢字の影響を受けて造られたものです。これは一つの面ですが、もう一方で、近代になると、中国は日本から多くの文化の成果を取り入れました。例えば、中国語の『倶楽部(グラブ)』『混凝土(コンクリート)』『物理学』『化学』『幹部』『立場』などの単語はみな日本から来たのです。20世紀初期にある人がこれを統計してみたところ、中国語には日本語からきた単語が900以上もあったといいます。また、中国の民主革命の先駆者、孫中山先生や中国近代文学の巨匠、魯迅先生もみな日本で勉強し、日本で民主の思想を吸収したのです……」 趙主任のこの話によって、会場の雰囲気はいっきょに和やかになった。 そのうえで趙主任は、歴史問題に対する態度を率直に述べた。 「現代の日本人に対して、私たちは責任を追及するつもりはありません。悪いのは一握りの軍国主義者たちであり、『江戸の仇を長崎で討つ』ようなことをしてはならないのです」 「しかし、日本側の一部の人が、再三、戦争の古傷に触れ、中国人の心はとても痛みました。中国人は戦争の歴史に対しては非常に敏感ですが、私たちは決して仇を討つように奨励していません。しかし(歴史を問題にするのは)今日と未来のために、用心しなければならないからなのです。中国人でも他の問題ではいろいろな考え方があるかもしれませんが、戦争の歴史の問題では、人々の考え方がほとんど一致しています」 「中国は、近代になって約100年以上、貧しく、弱く、いじめられて来ました。1894年の中日甲午戦争(日清戦争)で、『馬関条約』(下関条約)に調印し、中国は日本に2億両の銀で賠償を払いました。これは当時、中国の2年分の財政収入に当り、日本の3年以上の財政収入に相当します。一つの国が2年間、一銭の収入もなかったら、どんなことになるか、みなさんは想像できるでしょうか。一方、日本は、その賠償金を用いて工業を発展させ、教育を改善しました。日本の子供の教育は普及しましたが、中国の子供は学校に入れなくなりました」
「1900年、義和団運動の際、8カ国連合軍が中国に侵入して、中国は敗北し、また4億5千万両の銀を賠償することになりました。当時の中国は、そんなに多くの金が一度には出せなかったため、年賦にして支払うことになりました。その後、米国のセオドル・ルーズベルト大統領は、未払いの賠償金を帳消しにし、一部分の金を中国の教育のために使い、一部分の金で大学を建てました。他の6カ国も、米国に呼応しましたが、ただ日本だけはビタ一文まけることをしませんでした」 「中国の映画やテレビドラマの中では、アヘン戦争や8カ国連合軍に関する作品もありますが、日本の侵略に関することがもっとも多いです。これはこの100年来、日本がもっとも長期間にわたって中国を侵略したからです。遺恨は次の世代に伝えてはならないけれども、歴史は忘れてはならない。かつての貧しさを再び繰り返してはならないのです」 趙主任の話が終わって、座談会の会場はしばらく静かになった。一人の議員が、こう言った。「私たちは確かに、こういう歴史を知らなかった。被害者と加害者とでは、受け止め方が同じではないのですね」 座談会は予定の時間を大いにオーバーした。趙主任の提案で、みんな杯を挙げた。「中日両国の友好が世々代々続きますように」。中国語ができる何人かの議員たちは中国語で、他の議員たちは日本語で「乾杯!」と唱和した。 核物理学者出身の大臣
私は趙主任といっしょに仕事をするようになって4年になるが、彼といっしょに出張するのは、今回が初めてだった。 普段の趙主任は大まかで、話し方はてきぱきとし、人付き合いがよい、という印象を持つ人が多い。服装などには気を遣わず、彼の事務室の机やソファー、テーブルはいろいろな本や雑誌で埋まっており、彼が片付けるのを見たことがない。 だが、今回の訪日では、彼は意外なきめ細かさを発揮した。日本訪問中、提起されると予想される問題について、彼は一つ一つカードをつくり、私たちを観衆に見立てて、回答して見せた。そして回答の論拠、論点、言葉の使い方、話し振りなどをみんなから批評してもらったのである。 趙主任はかつて、核物理学の仕事に二十数年間も従事していた。だから、彼自身の言葉でいえば、対外宣伝の仕事は「中年から出家した」(途中から始めた)ものだ。そのせいか、対外宣伝に対する趙主任の仕事振りは、自然科学の仕事の時に身につけたように、データや文献を蓄積するというやり方である。彼は、対外交流の際、分かりやすくて簡単な言葉で事情を説明し、筋が通ったことを言ったので、外国人にもよく分かり、理解できたのだった。 今回の訪日を前に、国内で十分に準備してきたが、昼間、日本側と交流した状況に基づいて、夜には一部の問題について、みなでさらに深く検討を加えた。趙主任は「今回の日本との交流は、我々の見方を十分に示すと同時に、情理にかない、日本の普通の人々にも受け入れられるようにしなければならない」と何度も強調した。彼は暗い灯りの下で真剣にみんなの意見を書き留め、深夜まで何度も推敲した。 今回の若手政治家との座談会でも、私たちは周到に準備していた。趙主任の手には、インターネットで調べた各議員のプロフィールや趣味などが書かれた多くのカードがあった。そのため、どの議員が発言しても、趙主任はきわめて自然に対応することができた。 共産党の小池晃議員は「趙主任はさすが広報大臣ですね。私はあなたの話を聞いて、感服しました。日中関係に対するあなたの心配を、私もよく理解できます。日本が侵略戦争をしたのは事実ですから、日本はそれを認めた上で外交を展開すべきだと思います」と賛嘆した。 趙主任は確かにコミュニケーションが巧みである。厳粛の話題でもユーモアで自分の考えを表すことができる。2001年に米国で「九・一一事件」が発生したとき、趙主任はドイツで「ベルリンのアジア太平洋ウィーク」の活動を行っていた。 趙主任はその日の午後に開かれた記者会見で、ドイツの記者からこんな質問を受けた。「米国がテロリストに襲撃された後、多くの国は米国に同情したが、中国の青年はインターネットでその災難を嬉しがっているようにみえるが……」 これに対する趙主任の答えはこうだった。「私が上海で仕事をしたとき、ニューヨークの世界貿易センタービルより十数メートルしか低くしない金茂大厦というビルを建てました。金茂大厦は設計、管理などの面で世界貿易センターと良好な関係をもっています。今は仲の良い兄弟を失ったのと同じです」 さらに「中国は人口の多い国で、ネットでそういう気持ちをあらわした人は千分の一もいないでしょう。明らかに彼らはユーゴスラビア駐在中国大使館が爆撃されたことなどと関連づけて、一時的に鬱憤を晴らしただけで、哲学的な考えからではありません。ドイツ人は哲学の伝統を持つ民族ですね」 傷心の友人を慰める
TBSでの番組収録が終わった日の夜、TBSテレビの会長の砂原幸雄さんが、代表団の一行を招待してくれた。レストランは古風な平屋建てで、室内の装飾は簡潔で上品だった。砂原さんは趙主任と何回も顔をあわせたことがあった。趙主任は、砂原さんと対座すると「前回お目にかかるときは、まだ一人で暮らしておられたと記憶していますが、その後何か変化はありましたか」と尋ねた。砂原さんはすでに70歳になろうとしているが、身体は丈夫で、声にはハリがあるが、顔には深い皺が刻まれていた。趙主任は小声で、砂原さんは奥さんを数年前に亡くしたと教えてくれた。 砂原さんは礼儀正しく「僕はまだ1人です」と答えた。「自分にぴったりする人が見つからないのですか」と趙主任が聞くと砂原さんは「もちろんいますよ。ただ亡くなった妻が許してくれませんよ」と言って笑った。その笑い声は、わずかに悲しみを帯びていた。 趙主任はノートから1枚の白い紙をやぶり、その上に何かを書いて砂原さんに渡した。それを見た砂原さんは、意外にもすっくと立ち上がり、両手でその紙をうやうやしく胸の前に推し頂いて、感動あまり顔が真っ赤になった。そしてかすれたれ声で「これは中国の趙部長が書いてくださった私に対するものです。それを表装し、客間の中央に掛けようと思います」と大声で言った。 紙にはこう書かれていた。「あなたの奥さんは天国で、ずっとあなたの変わらぬ恋心を知り、非常に感動している。しかしずっとこのままでいると不安なので、奥さんはあなたが新しい生活を始めてほしいと心から願っている。奥さんはあなたの幸せを願っていてます。そうなれば奥さんも幸せなのです」 レストランの中はたちまち熱気に溢れた。趙主任も立ち上がり、「もし表装するなら、私の字ではだめです」と言い、私を指差し「蔡副部長の字は僕よりうまいので、彼に書き直してもらいましょう」と言った。 間もなく、レストランのおかみさんが、50センチ四方の色紙を持ってきた。多くの人が見守る中、私は趙主任の文章を写し、そして趙主任と自分の名前をサインした。 砂原さんは非常に感動したようだった。左手で色紙を持ち、右手で杯を挙げ、順番に同席した人と乾杯し、謝意を表した。私の番になったとき、砂原さんは畳に正座し、「趙部長は私の生活にこれほど関心を寄せてくださった。蔡さんは初対面でありながら、感動的な文章を書いてくださった。生涯、忘れ難いことです」と言いながら、目から涙をあふれさせた。 日本から帰国してほどなく、趙主任と私はそれぞれ砂原さんからの手紙を受け取った。彼の話では、その日、家に戻ってから、あの文章を客間の中央にある奥さんの写真のそばに掛け、お酒を注ぎ、奥さんの霊とともに酒を飲んだという。 反戦の沖縄の心を知る 沖縄は日本列島の南側にある。昔は琉球国という名だった。気候は暖かく、民俗は独特で、有名な観光地である。われわれは沖縄県の県庁所在地那覇の空港に着いたとき、元日本の中国駐在公使を勤め、現在日本の沖縄駐在の大使を担当する宮本雄二さんが熱心に迎えてくれた。 夜、沖縄知事が主催する正式な会談と宴会に参加したあと、趙主任と長い付き合いのある「老朋友」として、宮本さんは那覇の居酒屋へ行こうと誘ってくれた。那覇市の国際大通りにある居酒屋で、客が軽快な音楽に合わせて、思う存分、歌ったり踊ったりする様子を見て、沖縄の人々の素朴で楽しいライフスタイルを感じ取った。 翌日、趙主任は、予定されていた活動を断って、沖縄県の平和祈念館へ見学に行った。1945年3月末、米軍は沖縄島に攻め込んだ。沖縄の軍民は組織的に抵抗したが、6月23日、沖縄は米軍に完全に占領された。これは第二次世界大戦中、唯一、日本本国で行われた戦役であった。死亡者数は合わせて23万9000人で、その中には沖縄の庶民が10万人以上含まれていた。元英首相のチャーチルは、沖縄戦を「戦争史上の最も激しく、最も有名な戦役の一つだ」と称した。戦後、日本は、日本の軍民が追い詰められた沖縄県の摩文仁の丘に、平和祈念公園を建てた。 公園は海辺に建てられ、海に面するところは険しい崖になっている。崖の下には、白波を立てて大きな波が打ち寄せ、もの寂しい風景だった。趙主任は切り立った崖の上を指差しながら「以前、沖縄戦を描いた映画を見たことがある。多くの婦人が手に棍棒を持って米軍と闘い、最後にはここで、海に身を投げて死んでいった」と説明した。 海から100メートル余り離れたところに、黒い大理石の記念碑の林がある。記念碑の高さは人の背丈の半分で、一列の長さは数10メートルである。それぞれきちんと並んでいて、合わせて20列である。碑の林に入ると、記念碑の上にはすき間なく殉難者の名前、国籍、出身地が刻まれている。日本人もいるし、アメリカ人もいる。軍人もいるし、庶民もいる。あわせて20万人以上の名前がある。 碑林の前には平たい大理石があり、その上には日、英、中、韓の4種類の文字でこうした趣旨の文章が刻まれていた。
「われわれ沖縄県民は、謹んで沖縄戦で貴い生命を失った人々に哀悼の意を表し、この戦争の悲痛な教訓を正しく後世に伝えていくことを願い、国内外に広く、沖縄の歴史や風土から育まれた『平和の信念』を宣伝し、世界の永遠の平和を祈念する。さらに太平洋戦争と沖縄戦の終結50周年を記念するために、特にここに『平和の礎』をここに建てる」 これを見て、私と趙主任は深い感慨を覚えた。日本人民も戦争の被害者なのだ。彼らは、自分が受けた災難をしっかりと記憶している。しかし、そうであるなら、日本軍国主義が他国にもたらした苦難を、けっして忘れてはならない。 日本で『人民中国』を印刷する 数々の出会いや心の交流を重ねた日本の旅だった。この旅で中国と日本は文化的に深く結びついているということを強く感じた。だからこそ、中国と日本の友好交流は無限の可能性を持っている。人と人との相互理解が友好の基礎だとすれば、私たちは中国の状況をできるだけ豊富に、できるだけ迅速に、日本の皆様に伝える必要がある、私は思った。 創刊50余年の歴史を持ち、日本語で書かれた唯一の中国の公的な月刊誌『人民中国』は、これまでも中日間の相互理解の役割を担ってきたが、これからはさらに重要な役割を果たさなければならない。そのために、これまで中国国内で印刷されてきた『人民中国』を、今年8月から、日本でも印刷することを、私たちは決断した。日本の皆様の、いっそうのご支持とご愛読をお願いしたいと思うのである。
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