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沈暁寧=文・写真 |
日本の立命館大学に、中国の国務院新聞弁公室が孟子の像を贈ることになったが、孟子の故郷はいま、どうなっているだろうか。孟子とはどんな人物で、彼の思想は、現代中国でどのように評価されているのか。約2300年前に生きた孟子の故郷、山東省鄒城市を訪ねた。 数万人の子孫が住む
孟子は、孔子の開いた儒学を受け継ぎ、心血を注いで大いに発展させた人物であり、「亜聖」と呼ばれている。彼が生まれ、育った鄒城は、孔子の故郷である曲阜市の南、40数キロのところにある。 鄒城市は、肥沃な農地や高品質の石炭が埋蔵されている鉱区に囲まれ、北、東、南の三方から、標高300メートル前後の丘陵群に抱かれている。規模は大きくないが、約120万人が住んでいる。 鄒城の街には、十字路の真中に、孟子とその母の塑像が立っている。文化広場には、竹簡に書かれた孟子の発言録『孟子』をかたどったオブジェが置かれ、小学校の名前も「孟子小学校」という。孟子は、ここに住む人々の誇りなのである。 それもそのはず、鄒城にはいまなお、7、8万人の孟子の子孫が住んでいる。彼らはさまざまな職業に従事し、それぞれ違った人生を送っているが、名前を付け方には決まりがあり、姓の「孟」の次の字は、孟子から数えて何代目かによって必ず同じ文字を使わなければならない。 今年64歳になる孟祥居さんは、孟の次に「祥」の字がついているので、孟子の75代目の子孫であることがわかる。彼は子どものころ、孟子の直系が住んでいた「亜聖府」で、貴族として暮らしていたが、解放後、「亜聖府」が文化財に指定されたのにともない、そこから引っ越して、庶民としての生活を始めた。 これによって彼は、かえって気持ちがのびのびとしたという。「それ以後、私は何にも束縛されずに大自然と接し、働くことや技術を学び、多くの人と自由に付き合うことができました」と彼は回顧している。
しかし、「孟子の子孫として、私は依然として毎日、『孟子』七編を読み、人として世に処する先人の教えを学んでいます」と彼はいう。孟祥居さんは優しく穏やかで、率直、誠実な人柄であり、台湾にいる孟子第75代の嫡流である孟祥協さんの依頼で、一族の事務の責任者となっている。 静かで落ち着いた鄒城の街で、もっとも美しい建物は、学校と博物館である。中でも、鄒城第一中学の建物は、規模が大きく、教育設備も完備していて、北京でもこれに匹敵するものはなかなかないほどだ。鄒城市博物館は壮大な建物で、きれいに飾り付けられている。6つある大型の展示ホールには、当地で出土した原始時代から近代までの文物が収蔵されていて、参観者に鄒城の過去を語りかけている。 鄒城では、どの家庭も、父母が子どもの教育に非常に熱心である。父母が軽々しく子どもを叩いたり、罵ったりはせず、道理を説いて子どもたちにその是非を分からせる。これもおそらく、孟子が教育を重視したことと関係があるのだろう。 現在、鄒城には、孟子を代々祭ってきた孟廟、孟子の末裔が住んできた古い邸宅である孟府、孟子とその子孫の墓である孟林などの古跡が保存されている。 仁と義を求めた孟子
孟子は、姓は孟、名を軻という。紀元前372年に生まれ、3歳のとき、父と死別した。その後はすべて母の手で育てられた。 伝えられるところによると、孟子は幼くして賢く、勉強が好きだったが、最初に住んでいたところが墓地の近くで、孟子が葬式の真似をするので、孟母はここから引っ越した。次に住んだところは市場の近くで、孟子は商売人の真似をするようになった。このため孟母は、文人が学問を習う「学宮」のそばに引っ越した。孟子はやっと読書人について礼儀を学ぶようになり、孟母はやっと安心したという。 孟子は、学校に上がった頃は、遊んでばかりいて、あまり勉強しなかった。ある日、孟母が機を織っているとき、ちょうど孟子が学校をサボって家に帰ってきた。孟母は悲しみ、怒って、機の糸をハサミでばっさりと切ってしまった。そして孟子にこう言った。「おまえが勉強を一生懸命にしないで、学業をほったらかせば、私が切った機の糸のように、これまでの苦労が水の泡になるのです」。これを聞いて孟子はにわかに後悔し、母親の話をしっかり心に留めて、その後は一生懸命勉強したのだった。 この二つの物語は、「孟母三遷の教え」「孟母断機の教え」として、広く後世に伝わり、孟母は賢母の典型となったのである。
孟子は15歳の時、孔子への敬慕の情を抱いて魯の国に赴き、儒学を学んだ。魯国は、戦国時代の諸侯の治める国の一つで、現在の山東省内にあった。ここで長年、儒学を懸命に勉強した孟子は、次第に博学多才の儒家の「大師」となった。 孟子は人を教え、育てるのが好きで、いつも学生たちといっしょに問題を討論し、その問答の中で儒家の思想を伝授した。孟子は十数年間、学問を教えたので、弟子は非常に多く、彼が魯国を出るとき、彼についてきた門下生は100人以上いた。 孟子が生きた時代は、ちょうど中国の戦国時代で、各地の諸侯は天下を争い、戦乱が絶えなかった。孟子は、庶民が苦しむのを見るに忍びず、仁政を施して天下を安んずるという政治の理想を胸に抱いて、40歳の時、諸国遊説の歩みを始めた。残念ながら、彼の「以民為本」(民をもって本となす)や「以徳服人」(徳をもって人を服す)、戦争反対の仁政思想は、諸国の国王の受け入れるところにはならなかった。 二十数年、孟子は失意と挫折を繰り返し、孟子の理想が実現する機会はなかった。64歳の時、孟子はついに弟子たちを連れて故郷に帰ってきた。しかし、孟子は意気消沈することなく、かえって長年、蓄積してきた思想を、一挙に爆発させるように、儒学の経典となった『孟子』七編を書いたのである。 『孟子』の中で孟子は、人間の天性は善良であり、心は人の理知的思考を支配し、天性を保持する根本であると信じた。このことから、ある人が善であるか悪であるかは、その人が心の中でどう考えているかによって決定される、とした。 また孟子は、君子は絶えず心の内を反省し、「富貴も淫すること能わず、貧賤も移すこと能わず、威武も屈すること能わず」(富貴にも迷わされず、貧乏でも身分が低くともくじけず、武力にも屈することがない)という強い意志を持った人間に自分を育成し、さまざまな誘惑に打ちかって、公明正大で剛直な、毅然として大地に立つ「浩然の気」を養わなければならない。これに対し小人は、感覚器官の享楽に溺れ、場合によっては良心を失い、世に罪悪をもたらす、と説いた。
人は衣食足りてはじめて礼節を知ると考えた。このため『孟子』告子編の中で、人々の生活水準の向上を奨励したが、必ず仁と義を用いて、物質的な欲望が無限に膨張するのを制約しなければならないとした。 孟子の目から見れば、物質的生活は「利」に属し、生命さえも「利」に属していて、それらは、人格と真理の象徴である「義」の前では、軽く小さなものである。孟子は、生命を魚に、義を熊の掌に喩えて、両者が同時に持てないときには、魚を捨て熊の掌をとる、つまり生を捨て、義を取らなければならないとした。 孟子は「性善説」や「義と利とを弁別する」考えから出発し、個人の道徳修養を、国を治める方略に発展させた。彼は、国家の社会秩序は「民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」(『孟子』尽心編)でなければならないと考えた。国の君主は、民百姓の苦しみに心を寄せることを通じ、仁政を施すことによって、みなが安心して暮らせるようにしなければならない。王道を以って民心をかち得れば、天下は安定する、と考えた。 日本にも大きな影響及ぼす
紀元前289年、孟子は84歳の高齢で、故郷でこの世を去った。彼の学説は、孔子の思想とともに、後に「孔孟の道」と呼ばれるようになり、中国の知識人が立身出世するための基本となった。 宋代から、『孟子』は、学問をする者の必読の書である『十三経』の一つになった。元代には、孟子は「亜聖」に封じられ、「至聖」の孔子に次ぐ地位にのぼった。明・清代には『孟子』は科挙の試験の必修科目になった。清の乾隆帝は、2回も鄒城の孟府に光臨し、孟子の像に対し「一跪三叩の礼」を行った。 民間では、孟子が提唱した「老人を敬い、幼児を愛す」「己に厳しく、人に寛大」「忠誠にして信を守る」「謙譲礼節」が、中華民族の伝統的な美徳となった。現在、中国が実行している「徳を以って国を治める」や「和諧(調和のとれた)社会を構築する」などの国を治める理念は、程度の差はあっても、孟子の思想の要素を含んでいる。 孟子の思想は、中国において影響が大きかっただけではない。日本や高麗、ベトナムや西洋にも相前後して伝わった。 日本では、鎌倉時代(1192〜1333年)に、『孟子』が広がり始め、徳川時代(1600〜1868年)には、『孟子』に関する著述は500種以上に達した。 1869年、日本近代の著名な政治家である西園寺公望が、京都御所に開設した私塾の名を「立命館」と命名した。その「立命」の二文字は、『孟子』尽心編の「修身立命」の思想から取ったものである。1913年、西園寺公望の秘書であった中川小十郎が、西園寺公望の精神を継いで、1900年に設立した「京都法政学校」の名前を「立命館学園」に変えた。それが今日の立命館大学である。 |
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