『中国の赤い星』の延安を訪ねる
 
                                 侯若虹=文  馮進 劉本平=写真

延安は歴代、郡や州、府が置かれてきた。隋の大業3年(607年)、延安郡が設立され、明・清の時代には、延安府が置かれた。1937年に中国共産党中央が延安に進駐し、延安市を設立した。これが、延安が市となった初めである

 60年前の中国は、国も弱く、人々も貧しかった。毎年のように続く内戦や日本帝国主義の侵略によって、民衆の生活は塗炭の苦しみの中にあった。

 当時、延安は、中国共産党の西北地区の解放区であった。黄土高原にあり、生活の苦しい小さな都市ではあったが、きらめく一つの赤い星の如く、中国民衆に新たな希望をもたらしたのだった。

 今年は、世界の反ファッショ戦争勝利60周年にあたる。中国の反ファッショ戦争を指揮した中国共産党の指揮部が置かれた陝西省延安市を訪れた。

悠久の歴史に育まれた古鎮

延安の市街地の東南にある宝塔山。山上の宝塔は唐代に建てられた。塔は9階あり、高さは44メートル。現在の宝塔は明代に建てられたものである

 延安は黄河中流に位置し、一方は山に接し、また川に沿って広がっている。延安でもっとも人目を引くのは、なんと言っても山に沿って作られた窰洞である。窰洞は、地元の人々の主要な住居であり、住めば冬は暖かく、夏は涼しく、陝西省北部の地理や気候にとても適している。遠くを眺めると、どの山にもみな、大きさの違う窰洞がある。単独の窰洞もあれば、いくつか並んだものもある。2階建て、3階建てのように見える窰洞もある。土で造られたものやレンガや石の窰洞も数多くある。

 中国の歴史上、延安は国境の要塞であり、要衝であった。秦代の名将・蒙恬(?〜紀元前210年?)、前漢の「飛将軍」の李広(?〜紀元前119年)、北宋の政治家であり文学者であった范仲淹(989〜1052年)、科学者の沈括(1031〜1095年)らが、かつてこの地に駐屯していたことがある。

 『史記』には、「黄帝崩じ、橋山に葬る」とある。延安市黄陵県城北の橋山黄帝陵は、軒轅黄帝の衣冠を埋めた塚である。毎年、清明節の時には、国内や海外から多くの「炎黄の子孫」(中国人)がこの地にお参りするためやって来る。

 唐代の著名な詩人、杜甫は、安史の乱(755年)の時、一家を率いて延安に避難し、『三山観水漲』『北征』『羌村三首』『塞蘆子』などの多くの有名な詩を残した。現在、杜甫の住んだ羌村(延安市富県)には旧居があり、磨崖には「少陵旧遊」と彫りこまれた石刻がある。杜甫は自ら「少陵」と称した。延安市の南にある七里舗には杜公祠があり、代々、補修が重ねられてきた。

宝塔山の麓にある歴代の磨崖石刻群。その中には、宋の范仲淹が書いた「嘉嶺山」の3文字がある。文字の大きさは。縦横3メートル以上ある

 北宋時期の科学者・沈括は、延安で古生物の化石を調査し、それを書き残しているが、彼は初めて「石油」という名称を使い、また「この物は、後の世に大いにもてはやされるだろう」と科学的に予見した。

 延安の石油開発とその利用には、長い歴史がある。清の光緒33年(1907年)、陝西の巡撫であった曹鴻勲は、延長県に官営の石油工場を興すことを許された。彼は、日本の技術者である佐藤弥市郎を招聘し、延長県西門の外で油井を実地調査し、工業用の油を得た。当時は小さな銅の釜で原油を精製し、灯油を日産12.5キロ、得ることができた。これは、中国大陸で最初の油井だった。地元の人が「老一井」と呼ぶこの油井は、現在、延長県石油希望小学校の校庭にあり、今なお油を出すことができる。

 延安の有名な宝塔山は、かつては嘉嶺山と呼ばれた。山上の宝塔は、9層の楼閣式のレンガで造られた塔であり、唐の時代に建設が始まった。今も山上には范仲淹が在職していた時期に修築された摘星楼、烽火台、嘉嶺書院、古城壁などの遺跡がある。山の西の麓には、200メートルを超す磨崖石刻があり、その中には范仲淹の手になる「嘉嶺山」の大きな三文字が、雄渾な筆致で書かれている。

学習と読書が盛んだった延安

延安の根拠地で、共に作戦を検討する毛沢東(右)と朱徳(左)

 延安が本当に後世にその名が留めるようになるのは、1937年からである。1935年、2万5000華里の長征を終えて中国工農紅軍は陝北に到達した。そして1937年1月13日、毛沢東と朱徳の率いる中国共産党中央機関が延安に進駐した。これより後、1948年3月23日、黄河を東に渡り、華北に進むまでの13年間、中国共産党は延安にあった。

 延安時代は、中国共産党が成熟してゆく重要な時期でもあった。この時期、毛沢東自身、多くの社会科学、自然科学、哲学の著作を読み、そして党の幹部たちに、真剣に読書し勉学に励み、マルクス・レーニン主義を学習することを提唱した。当時の延安は、生活も貧しく、環境も苦しいものだったが、毛沢東に導かれ、学習と読書は盛んになった。その結果、面白い現象が起こった。それは、延安では多くの日用品が足りなかったのに、本屋は逆に多かったのである。

延安の保育院の子どもたちといっしょに過す朱徳

 当時、延安に来ていたドイツ人のアンナリザ(中国名・王安娜)はこう描写している。

 「延安市内は特に見るべきものはなく、この小さな鎮は、どこに行っても同じだ……しかし私の注意を引いたのは、多くの本屋があることだった。学生や紅軍兵士たちが、カウンターの前で押し合いながら、マルクス主義の著作の普及版を買っていた。国民党支配地区で発行されている雑誌も見られた。といっても一カ月遅れではあったけれど」

毛沢東が住んでいた「棗園」の旧居

 延安の革命旧跡を参観すると、どの旧跡にも毛沢東の住んだ住居址を見ることができる。どこも部屋の中はとても質素だが、書架と机が備えられており、机のない場合は、オンドル用の小机がある。

 延安時代に毛沢東は、多くの重要な文章を書いた。例えば有名な『実践論』『矛盾論』『持久戦論』『新民主主義論』などで、これらの文章は、中国共産党が延安で歩んだ過程を記録しており、また集団的な知恵の凝集である毛沢東思想の成熟の過程をも記録している。

 棗園の毛沢東旧居で、彼が使っていた事務机の上には、30センチほどの鋳鉄の棒が陳列されている。これは延安での大生産運動の中で、初めて鋳造された鉄の見本である。毛沢東はずっとこれを「文鎮」として用いていた。

「棗園」の旧居の中の陳列品

 文章を書いて疲れた時は、鉄を力強く握り、手の指を伸ばした。夜は、油の灯りの下で机に向かい、筆を振ってすばやく文章を書き、徹夜して朝を迎えることも多かった。そのため、後に人々は「棗園の光」という言葉を、毛沢東ら中国共産党の人々が、救国救民の道を探し当てるために払った艱難辛苦の喩えとして用いている。

 後に編纂された『毛沢東選集』の一巻から四巻を開いて見ると、159編の文献の中で112編が延安時代に書かれている。この時期に中国共産党は、新民主主義革命の総路線を制定し、抗日民族統一戦線の樹立を提起し、武装闘争と党の建設などの重要方針を堅持した。

黄河のほとりにあった特殊な学校

延安の西北8キロにある革命旧跡「棗園」

 延安での時期は、まさに中国の反ファッショ戦争の開始から、対峙、そして勝利に向かう三つの時期であった。毛沢東は中国の半植民地、半封建という社会的性質から出発して、広範な統一戦線を確立するよう提起し、すべての力を結集するよう主張した。

 同時に、延安で、試験的に民主政治を始め、普通の労働者や農民にみな選挙権と参政権を与えた。当時の陝甘寧辺区(陝西・甘粛・寧夏の一部)の政府は「民主的政治、清廉な政府」とほめたたえられた。

 中国共産党の団結して抗戦し、一致して外敵に当たるという救国の信念と主張、また新民主主義社会を実現する誠実な願いは、中国民衆の幅広い支持と賛同をかち得た。

 当時の延安は、ただの貧しい辺鄙な田舎ではあったが、情熱に燃えた多くの知識青年や愛国者たちが、全国各地から敵の占領地区の封鎖を突破して、生命の危険をも冒し、救国の真理を求めて延安に駆けつけてきた。彼らは延安を「民主の聖地」「中国の希望」と見なした。資料によると、1938年5月から8月までに、西安の八路軍弁事所を経て延安に赴いた知識青年は、2288人に達している。

糸をつむぐ延安の幹部たち

 革命幹部を養成するため、中共中央と陝甘寧辺区政府は前後して延安に、中国人民抗日軍政大学、陝北公学、魯迅芸術文学院、延安大学、自然科学院、医科大学など、二十数カ所の幹部学校を創設した。

 その中でももっとも有名なのは、1936年に設立された中国人民抗日軍政大学(抗大)である。毛沢東は自ら大学の教育方針と校風を定め、毛沢東や周恩来らの指導者が自ら抗大で講義し、報告を行った。抗大の学生の中には、知識青年、専門家、教授もいたし、労働者・農民の幹部もいた。50歳を過ぎた年配者や13、4歳の青少年もいた。また世界各国から来た華僑、日本から来た反戦青年もいた。その数は、多いときには3万人を超えた。

 当時の延安の生活環境はとても厳しかった。教室もなく、抗大の学生たちは石に腰掛け、両膝を勉強机とした。校庭や木陰で授業が行われ、校舎が不足していたため、自らの手で窰洞を掘った。

宝塔山の南斜面にある日本工農学校の旧跡

 生活上の問題を解決するため、学生たちは野菜を植え、鶏を飼い、豚を育てて収入を増やし、食事を改善した。アメリカの著名な記者、エドガー・スノーは『中国の赤い星』(中国語の題名は『西行漫記』)の中で、抗大の辛苦の中で学ぶ精神を称賛し、「このような高等学府は、たぶん全世界でここだけであろう」と語っている。

 抗大を卒業した学生は、次々に反ファッショの戦場でのそれぞれの役割を与えられ、民族解放闘争の中で大きな作用を発揮した。新中国成立以後、抗大が育てた多くの軍政幹部が、新中国建設のための中堅の力となった。

 延安にある二十数カ所の学校の中で、ひときわ目を引く学校がもう一校ある。宝塔山の南斜面にある山の中腹に、一本の槐の古木があり、その下に、数列の窰洞といくつかの瓦葺きの家がある。そこの小さな運動場に黒い大理石の石碑が立っている。碑の上には「日本反戦同盟犠牲者記念碑」と記されている。ここが日本工農学校の旧跡である。

宝塔山の下で腰鼓踊りをする地元の人たち

 日本工農学校は1942年5月に設立された。中国共産党は、日本人戦争捕虜の中の反戦者と日本の革命者のためにこの学校を作った。校長は、当時の日本共産党員の岡野進(野坂参三)が担当し、元八路軍総政治部敵軍工作部副部長の李初梨と趙安博が副校長を担当した。

 学校は、社会発展史、政治経済学、哲学、時事情勢報告などの課程を開設した。設立当初は、学生は十数人だけだったが、1945年には、300人以上に達した。1945年の日本の降伏後、この学校はその使命を終え、その年の8月30日に正式に終了を宣言した。

 日本工農学校の学生たちはここで学んだ後、多くは抗日の前線に駆けつけ、日本に対する宣伝活動を展開し、反戦事業のために多くの仕事をした。彼らの中の多くは、戦後、日本に帰り、その後も日中友好事業に携わっている。

自力更生で奮闘する

延安では石油が産出される(写真・袁軍)

 延安の指導者たちの旧居内には、普通の日常生活で使われる家具のほかに、木製の紡ぎ車と農具がよく見られる。これらは、半世紀以上も前に陝北の農村で使われていた古い用具である。

 1938年、抗日戦争は対峙の段階に入ったが、その後は、長期にわたる消耗戦や日本軍による残酷な「掃蕩」、また国民党反動派の経済封鎖によって、延安の経済はきわめて大きな困難に陥った。一時は、辺区の軍民には糠しかなく、野菜で飢えをしのぎ、つぎはぎの服を着て、寒さを防いだ。

 このような状況下で、毛沢東は「飢え死にか? 解散か? それとも自ら手を動かすか?」と鋭く指摘した。そして彼は自ら筆をとって「自己動手(自ら手を動かす)」「豊衣足食(衣食満ち足りる)」と書いた。1942年には延安で、大規模な生産運動が展開された。

楊家嶺を参観した人たちは、周恩来の旧居前で記念撮影する

 当時、解放区の民衆、軍の兵士が大生産運動に投入されたが、そればかりでなく、延安の中央機関の職員や指導者も例外なく、身をもって生産活動に加わった。

 朱徳は当時、野菜作りの名人として有名だった。彼と彼の身の回りで働く人たちは、駐在していた王家坪の荒地を開墾し、三畝(一ムーは6.67アール)の野菜畑を作り、トマト、キャベツ、ホウレン草、カボチャなどの野菜を植えた。菜園は色とりどりの野菜で彩られた。

 毛沢東も、楊家嶺の窰洞の向かいにある谷間に、荒地を開墾した。仕事が忙しいため、1年目の収穫は期待通りではなかったが、2年目には、毛沢東は現地の年寄りの農民を顧問にし、時間のあるときに、野菜に肥料を与え、水をまき、草をとり、念入りに管理をした。この年にできたトマトは、実がしっかりして大きかった。さらに彼は、自分の好きな赤トウガラシも栽培した。客が来るたびに毛沢東は、自ら栽培した野菜で客人をもてなした。

革命教育ツアーの路線が開設された後、延安には各地から多くの人々が参観と学習に訪れるようになった 

 周恩来と任弼時は、糸を紡ぐのが得意だった。1943年、彼らは中央直轄機関と中央警衛団の糸紡ぎ競争に参加した。任弼時は糸紡ぎの量も多く、質もきれいで、一等になった。周恩来も糸紡ぎの名手との評判が高かった。資料によると、当時の中央書記処が駐留していた所では、毎日、空が明るくなる前から、紡ぎ車が回され、夜は灯りを点し、月の光の下で、紡ぎ車の「ブンブン」という音が、夜遅くまで響いていたという。

 1941年春、八路軍一二〇師団三五九旅団は、王震師団長の下、無人の荒野であった南泥湾に赴き、開墾に従事した。将士たちは、野外で食事をし、野宿し、イバラを切りひらき、度重なる困難を克服した。3年余りの間に、彼らは南泥湾の35万ムー以上を開墾し、3万7000余石の穀物を収穫した。掘った窰洞の数は千を超え、600室余りの平屋を建てた。昔日の荒野を「陝北の江南」に変えたのだった。

延安市の商業センターの賑わい

 自力更生、刻苦奮闘の精神は、延安時代に生まれた貴重な財産である。その時から今に至るまで、中国共産党の人々と全中国の人民は、自力更生、刻苦奮闘を民族精神の一つとして、始終堅持している。新中国50余年の歴史の歩みは、この精神が中国人民の困難に打ち勝つ有力な武器であることを証明している。
(歴史的写真は延安市委外宣弁提供)

 


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