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石影壁。赤みを帯びていて鉄鉱石を思わせるので、「鉄影壁」と名付けられた。鉄製ではない
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1995年1月のあの日の寒さを冬の陽射しが和らげていた。私は、徳勝門の東南にある胡同へ入っていった。このあたりはかつて鋳鉄所が集まっていたところで、近くの路地には「鉄影壁胡同」の名が付されている。胡同の奥に「徳勝庵」という名の僧庵の遺跡がある。今では大勢の人々が住まいとして中庭を占拠しているが、そのごみごみした中にあって、残ったお堂の古い梁がかつての趣を伝えている。しかし、以前その庵の前にあったはずの有名な影壁はどこにも見当たらない。(訳注・影壁とは宮殿や寺院の表門の外側にある目隠しの役割を持つ壁――障壁。魔除けともいわれる。住宅の場合は内側にあった)
この胡同が表の繁華街から分岐する角地に、タバコ売りの老人が肘掛け椅子に体を丸くして座っていた。私は彼に有名な元代の石影壁の行方を尋ねた。はじめのうち、老人は私が何を尋ねているのか理解できなかったようだが、この胡同の名前の由来になった壁ですよと言うと、彼は、高さ2メートルはあった大きな石影壁を思い出した。それはここから運び出されたが、行く先は知らないという。思うにこの石影壁は、北に広がっていた元の首都「大都」の城門内にあった「竜王廟」の影壁であったようだ。伝承によると、この壁は北から吹きこむ風と砂から都を守る魔除けと見なされていた。後の16世紀半ばになって、その石影壁は明代首都城壁の、北面の内側に当たるこの場所に移され、毎年襲来する砂嵐から首都を守る役目を果たしたらしい。
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鉄影壁胡同の標示板 |
私は2003年、その辺りがどうなったかを見ようと、再び出かけた。驚いたことに何も変わっていなかった。肘掛け椅子の老人までが、8年前と全く同じ所にいた。ただし今回はタバコは売らず、その代わり土地の知恵袋を自認して相談役になっていた。知恵のなかには、最近立てられた「鉄影壁胡同」の来歴を記した掲示板の間違いを正すことも含まれていた。「この掲示板は間違っておる。『この胡同名は1911年、影壁に由来して命名された』とすべきだよ」と彼は説教した。
通りの角にある彼の家は、町角ウォッチングにぴったりの場所だった。この老人、83歳の王恒起さんは、以前胡同の入口に立っていた牌楼(中国式鳥居形の門)のことも覚えていた。「お坊さんはそう多くなかったよ。解放前でもたった1人か2人だったね」と彼は回想した。
「鉄影壁胡同」は全長せいぜい200メートル、2〜3回カーブしながら北に向かい、次いで直角に曲がって東の別の胡同に突き当たる。影壁と僧庵は、最初のカーブの向こうにあったという。近所の老婦人が、1930年代に、影壁が売りとばされないようにと、壁の上部にあった2つの龍の首をたたき落としたと口を挟んだ。
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現在は北海公園にある「鉄影壁」 |
王さんは私を自宅に招き、自慢のコレクション――古い年画拓本を見せてくれた。私は、影壁が現在どこにあるかと尋ねてみた。「1947年に北海公園に移されたよ」と今回は確信のある情報を提供した。
この名高い800年前の「鉄影壁」は、北海公園の北のはずれ、歩道のそばにあった。この巨大な軽石製の石板は、赤みを帯びていて鉄鉱石の印象を与える。片面には奇妙な怪獣、麒麟が彫ってある。牛のひづめと、龍の角とうろこを備えたこの怪獣は、大海を表す図柄の中に置かれている。反対面には木立を背景に、これまた奇妙な獅子が彫ってあり、獅子の足元では子獅子が2匹遊んでいる。なるほど、壁の上の隅2個所が壊れていた。これまでに2回も移動させたところをみると、相当な敬意が払われていたに違いない。しかし、砂嵐に対する効力となるとかなり疑わしい。(訳・小池晴子)
五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より
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