しみを乗り越え、友好を培う
草の根交流が支えた中日関係の六十年
 
 
                                     
海岸に最近立てられた「1050000日本僑俘遣返之地」の碑。60年前、日本の居留民と捕虜がここから帰国したことを記念している。
 1930年代から45年まで、日本は中国を侵略し続け、中日関係は最悪の時代だった。肉親を殺され、家を焼かれた人も多く、戦争の傷跡は深い。中国は国を挙げて抗日戦争を展開した。

 日本人もまた、中国・東北に100万人以上、取り残された。戦後の混乱の中で、多くの人は飢えと寒さにさいなまれ、恐怖におびえ、難民となって流浪した。

 それから60年。中国人も日本人も必死に生き、平和な社会をつくった。

 ここに紹介する歴史の事実や証言は、中国の人々は憎しみを克服し、日本の人々は過去の反省の上に、新たな友好関係を築こうとして努力してきた証である。

 

特集一
葫蘆島からの引き揚げ
戦後の中日関係はここから始まった
                                    王浩=文  劉世昭=写真

引き揚げ船が岸壁を離れるとき、日本人の引き揚げ者たちは、複雑な気持ちで葫蘆島を望めていた(五洲伝播出版社提供

 60年前の8月15日、日本は降伏し、世界の反ファシズム戦争が終わったとき、中国・東北部には、日本の軍人や居留民が約130万人いた。難民となった日本人を、『ポツダム宣言』に基づいてすべて帰国させる事業が、1946年から1948年にかけて実施された。150万もの日本人が遼寧省葫蘆島に集められ、住宅や食糧が与えられ、帰国していった。

 これほど多くの難民の帰還が、大きな混乱もなく整然と行われたことは、世界史的にもあまり例をみない。

 戦後の中日関係は、この葫蘆島から始まったといってよい。

日本の居留民も被害者だった

李玉清さん

 葫蘆島は、遼寧省の西部にあり、遼東湾に突き出ていて、東西南の三方を海に囲まれている。60年前、ここは、人家がまばらな、小さな漁村に過ぎなかった。今は葫蘆島市となり、人口は200万を超す。

 72歳になる李玉清さんは、ずっと葫蘆島市の竜港区亮房子に住んでいるが、60年前の出来事を、今でもぼんやりと覚えている。

 「当時、葫蘆島の汽車の駅あたりから、日本人が大勢出てきたと聞くと、私たちは好奇心から、みな駆け出して見に行きました。日本人は海岸付近に長い列を作って並んでいました。婦人も子どももいました。傍らで、中国の軍人が見張っていました」

 李さんはそのとき、まだ12歳だったから、当時のことをあまりはっきりとは覚えていないが、それでもぼんやりと記憶している。しかしいま、李さんのような人も数少なくなってしまった。

 日本人が大挙して中国にやって来たのは、日露戦争(1904〜1905年)以後のことである。当時、この戦争の結果、日本は、帝政ロシアから中国・東北の旅順、大連地区の租借権と、長春から旅順までの鉄道およびその付属地を獲得した。さらに植民地統治を強化し、さらに侵略を拡大するために、日本は「満州移民論」を提起し、計画的に大連、旅順地区に移民を始めた。

 1931年には、理不尽にも日本は、東北地区に出兵し、占領した。さらに東北地区を永久に占領する野心を実現するために、日本は絶えず東北地区への移民を拡大した。こうした移民は「開拓団」と呼ばれた。

 1945年になると、東北地区の「開拓団」は130万人に達した。これに70万の関東軍を加えると、東北地区の日本人は200万人に達した。

 日本は、「開拓」の旗印の下で移民政策を遂行し、土地を奪って占拠し、資源を略奪し、中国・東北の人民に深刻で重大な災難をもたらした。しかし、戦争によって、こうした日本の居留民もまた被害者になった。

 1945年8月初め、ソ連(当時)の赤軍が電撃的に東北に進軍したとき、その攻撃を逃れようと、日本の居留民たちは四散し、逃げ惑った。さらに日本政府は敗戦後、「棄民政策」を実行し、居留民をほったらかしにした。このため彼らは難民にならざるを得なくなり、生活は非常に厳しかった。

 当時、満鉄職員だった角田正九さんはこう回顧している。

出航の汽笛が鳴った時、人々はみな甲板に集まった(五洲伝播出版社提供)

 「当時、奉天(現在の瀋陽)にいた日本人の難民は、想像できないほどたくさんいました。彼らはちゃんとした衣服もなく、大豆を入れた袋の真中をハサミで切って服にしていました。それ以外は何も持ってはいません。難民たちは次々に各地から湧き出すようにやって来るのですが、住むところがなく、小屋のようなところに住むほかはありませんでした」

 1945年9月2日に、長春の日本居留民会が東京に打った電報は「いま将に冬が来るというのに、約80万人の難民がおり、食も住もなく、困窮している」と窮状を訴えている。

 日本人難民たちがもっとも望んでいたのは、日本に無事に帰ることだった。当時、内外の情勢は緊迫しており、中国政府は急いで日本人の帰国を援助する必要があった。1945年末、米、ソ、中三国は、日本居留民の帰国問題で交渉を行い、原則的にすべての在華日本居留民を一律に、できるだけ早く日本に送還することになった。

 米国は第7艦隊を派遣し、海上輸送を担当することに同意し、ソ連は旅順、大連の日本人27万人の送還に責任を持ち、中国は、難民を集め、陸路で港まで運ぶ責任をもつことになった。しかし、ソ連は、中国がソ連の支配する大連、営口の二つの港を利用するのを拒絶したため、遼寧省西部の葫蘆島が、東北地区にいた日本人居留民が帰国する唯一の希望の港となった。

 葫蘆島は港が広く、水深が深く、不凍港で、いつでも大型の船舶が停泊できる。さらに鉄道線路が直接、埠頭まで引かれていて、交通輸送が大変便利だった。このため、一部の丹東の居留民が陸路、朝鮮半島を経て運ばれるか、鴨緑江を経て海路帰国した以外は、日本人居留民はすべて葫蘆島に集結した。こうして小さな漁村だった葫蘆島は、知らぬ間に歴史的な重い任務を担うことになったのである。

150万1047人の帰国

葫蘆島の埠頭にある倉庫の傍らで、送還される日本人たちは帰国の船を待った(五洲伝播出版社提供)

 日本居留民が順調に帰国するのを保証するため、中国政府は「東北日僑管理処」をとくに設立し、責任者を派遣した。また、葫蘆島だけで3万人の支援隊を送還の準備に当たらせた。そして引き揚げ船が入るとすぐに日本人を乗船させ、出航が遅れないようにした。このほか、瀋陽―錦州―葫蘆島の間に直通電話を特設した。また、疾病を予防するため、政府はこの沿線に臨時の病院を設立し、各地方政府は、食糧や生活物資を提供した。

 日本人居留民たちに各種の帰国情報を伝達するため、「東北日僑管理処」は錦州で『東北導報』という新聞を出した。これは日本語で書かれた4ページのタブロイド版で、1946年3月7日から発行を始め、1947年9月5日まで、全部で498号、発行された。その中に載せられた「遣送便覧」などの内容は、日本人居留民の帰国の状況を詳しく紹介している。

 東北にいた日本人居留民が、葫蘆島に集まるようにとの命令に接したのは1946年4月23日のことであった。「帰国できる」という情報は、瞬く間に各地に伝わり、居留民たちの喜びはひとしおであった。帰国の状況を知ろうと、彼らは『東北導報』をぼろぼろになるまで繰り返し読んだ。

 1946年5月7日、2489人の日本人居留民の引き揚げ第一陣が、葫蘆島の港から引き揚げ船に乗船した。大海原を見た人々は、「とうとう帰国できる」という気持ちの昂ぶりを抑えることができなかったという。

 引き揚げ事業が始まった後は、毎日平均、7隻の引き揚げ船が出航した。一つの船には2000人が収容できた。まず、葫蘆島付近の錦州、阜新、朝陽の日本人居留民が先に引き揚げ、その空いた宿舎には、次々とやって来る居留民が収容された。

 その中には多くの婦女と児童がいたが、臨時病院は経験のある日本の医者を選んで、婦女や児童の面倒を見させた。2年余りの間に、120余人の妊婦が葫蘆島で出産したが、母子ともに死亡したケースは一例もなかった。

葫蘆島の港を出航し、帰国の途につく日本人たち(五洲伝播出版社提供)

 1948年9月20日、最後の引き揚げ船が葫蘆島を出航した。送還された日本人居留民の総数は、150万1047人を数えた。

 中国側の努力にもかかわらず、避難する途中、高齢や病弱で身体が弱かったなど、さまざまな理由で、帰国直前、葫蘆島で病死した人もいた。

 高麗義久さんは当時、14歳の少年だった。彼の父は帰国を目前に、病気のため世を去った。現地の人々に助けられて、母は、父の亡骸を葫蘆島の港の近くにある「茨山」という小さな山の斜面に埋葬した。そして義久さんと幼い弟を連れて、涙に暮れながら日本に帰った。

 それから数十年、義久さんの母はいつも日本の海辺にたたずんで、はるかに葫蘆島の方角を眺めていた。後に母は、臨終の時、義久さんに、必ず父と合葬してほしい、と遺言した。1977年、義久さんは、母の遺骨を持って葫蘆島に来て、母の遺言を実現したのだった。

忘れ得ぬ葫蘆島

 中国・東北から引き揚げてきた多くの日本人にとって、葫蘆島は終生忘れ得ぬ場所である。命からがら葫蘆島にたどり着き、ここで生き返った人も多い。この間の歴史を解明するため、葫蘆島市共産党委員会の銭福雲宣伝部長の一行はこのほど、日本を訪問し、多くの葫蘆島からの引き揚げ者を訪ねた。銭部長が聞いた話は――。

 大学教授を退職し、現在名古屋に住んでいる間瀬収芳さんは、5歳のとき、長春に行った。15歳になったとき、中学生だった間瀬さんと同級生たちは、突然、関東軍の命令で学業を中断し、「開拓団」に編成されて、ソ連との国境に送られた。稲の田んぼをつくるということだったが、実際、そこで行われたのは、土地を掘り起こして柔らかくし、そこに水を注いで泥沼状態にして、ソ連軍の戦車の進攻を阻止しようというものだった。

両親を亡くした女の子が、幼い妹を背負って帰国していった(五洲伝播出版社提供)

 しかし、戦端が開かれるとすぐに、ソ連赤軍は防衛線を撃破してしまい、彼は同級生とともに長春方面に逃げた。びくびくしながら牡丹江のほとりの石頭村にたどり着いたが、飢えと渇きにさいなまれ、食べ物をあちこち探して歩いた。このとき、石頭村の村人たちが、温かく間瀬さんらを助けてくれた。

 「あの時は、本当に寒かった。村の老人たちが私たちをかわいそうに思い、食べ物を持ってきてくれました。年のころ60か70の老人は、私を抱きかかえて、自分の家のオンドルに運び、お湯の入った盥を持ってきて、私の両足をこすって洗ってくれました。そして暖かくなるまでずっとこすり続けてくれたのでした」

 このことを思い出すたびに、間瀬さんは涙でいっぱいになる。その後、彼は、長春に帰りつき、父母とも会えた。そしてその翌年の10月、葫蘆島経由で日本に帰ってきた。

 雑賀伊人さんは、葫蘆島に行く途中、身体が極度に衰弱していた。数日間、何も食べていなかったからである。「もうダメだ」と思ったとき、一人の優しい中国人が、彼に「麻花」を一つくれた。「麻花」とは、小麦粉を練って油で揚げた菓子である。雑賀さんはその「麻花」のお陰で、ついに葫蘆島にまで歩いてたどり着くことができた。

 「あの『麻花』が、私の命を救ってくれた。あの時、あの『麻花』をくれた人を探すことはできないが、私は永遠にその人を忘れることはできない」と雑賀さんは言う。

 1997年、雑賀さんは葫蘆島を再び訪ねた。彼は中国でもう一度、「麻花」を見つけると、慟哭した。

 日本人居留民は葫蘆島に一時期滞在し、乗船を待たなければならなかった。もっとも短い場合は1、2日、長い場合は1、2カ月かかった。その間の食物はすべて、現地の中国人が提供した。100万人以上の人が食べる食物の量は膨大である。多くの中国人は、わずかに残っていた食糧を差し出した。その食糧は、高粱や粟、トウモロコシ、大豆などで、中国人自身はみんな、野菜を食べて飢えをしのいだ。

 難民となった日本人たちは、こうした中国の人々の無私な援助を忘れることができない。1994年、かつてここから引き揚げた国弘威雄さんが葫蘆島にやって来た。彼は自らの経験に基づいて、葫蘆島から100万余の日本人が帰国した記録映画を撮った。

 「この映画を製作したのは、人々に、60年前のあの歴史を理解してもらい、前車の轍を踏まないよう警告するためです」と国弘さんは言う。この映画を作るため、彼は自分の家財を惜しげもなく売り、資金とした。葫蘆島市政府もこれに協力し、映画『葫蘆島大遣返――日本人難民105万引き揚げの記録』が完成した。この映画は1998年、日本各地で上映され、大きな反響を呼んだ。

銭福雲・葫蘆島市党委宣伝部長

 この映画の影響もあって、100人近い葫蘆島からの引き揚げ者が「葫蘆島再訪の旅」を組織して、当時、引き揚げたルートの思い出の地を訪ね、また茨山に登って、亡くなった人の霊を弔った。

 北海道で茶道の先生をしている佐々木宗春さんは、1946年8月、葫蘆島に来たが、ここで重い病気に罹ってしまった。生命も危ないときに、葫蘆島に住む3人の中国人が、彼女を助け、食べ物を与え、がんばるよう彼女を励ました。その結果、佐々木さんは九死に一生を得たのだった。

 2001年と2002年の2回、80歳を超した佐々木さんは、葫蘆島を訪れ、昔の恩人を探した。しかし、歳月、人を待たず。葫蘆島の風景も人も昔と同じではなかった。

 仕方なく彼女は、昔のことを記念するため、あまり多くない自分の年金の中から8万円を出して、5株のイチョウの木を買い、葫蘆島の竜湾公園に植えた。そしてかたわらに、「恩」と刻んだ石碑を立て、恩人と葫蘆島に対する感謝の気持ちを表したのだった。

 葫蘆島市党委の銭宣伝部長によると、最近の数年間、葫蘆島を訪ねてくる日本人はますます多くなっているという。60年という歳月が流れ、当時少年だった人も、今は70、80の老人になった。100万を超す日本人居留民が、葫蘆島から引き揚げて行ったという歴史も、現代の人々の記憶から次第に薄れていっている。

 しかし、引き揚げた日本人は、あの戦争がもたらした苦しみや、その中にあって中国の人々がしてくれた人道的な配慮を、今でもありありと目に浮かべることができる。

 いま、私たちが当時のあの歴史を回顧するのは、戦争が中日両国人民にもたらした苦しみを、永遠に忘れないためなのである。



  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。