特集二       人と人とが築く中日友好

変わらぬ四十年の友情

                          関志豪 元『法制日報』編集長、社長

1965年11月、訪中した関西代表団の一行と記念撮影する関志豪氏さん(前列左から3人目)、前列右から2人目は中井常生団長、前列右端は前田清副団長(関志豪さん提供)

 私は1931年に浙江省杭州市で生まれた。

 1937年の夏、ゴウゴウという飛行機の爆音と爆弾が炸裂する音を聞いた。その時から、空襲警報を聞けばすぐ防空壕に走った。間に合わないときは、テーブルの下に潜り込んだ。日本軍が攻めてきたのだ、と大人たちは言った。

 間もなく私たちは、上海に逃げた。ここでは、人々が外出するときに、銃剣を持った日本兵の検査を受けなければならなかった。これは、まだ幼かった私の心に、恐怖の暗い影を植え付けた。私は強い疑問を抱いた。「どうして日本兵が、私たちの国にきているのだろう?」

 1965年、中国は500人の日本の青年を招待して、初めて中日友好青年大交流を行った。当時、全国青年連合会の仕事をしていた私は、13人の関西代表団メンバーの接待を担当した。

 11月中旬、私たちは、深センの羅湖で彼らを迎え入れた。その後、40日間、私たちは西湖の湖畔や黄浦江のほとり、天安門広場や延安の窰洞で、いっしょに歌を歌い、膝を交えて腹蔵なく話し合い、非常に友好的な付き合いをした。

  南京では、団のメンバーたちは下関にある南京大虐殺記念館を参観し、日本兵が中国人を虐殺する写真展を見た。その日の昼食は、メンバー全員、食事が喉を通らなかった。

 ある時、散歩に出かけた我々は、顔に傷のある1人の漁民に出会った。彼は、この傷は日本兵に刺されたものだと言った。団のメンバーたちは非常に驚き、また恥じ入った。

 いよいよ別れるときになり、みんな抱き合って泣いた。大声を上げて泣く者さえいた。彼らが私に遺していったメッセージはほとんどが「日中不再戦」「日中両国人民は世々代々友好を続けて行きましょう」だった。

関志豪さん(関志豪さん提供)

 2001年1月、私は、副団長だった前田清さんが中日友好協会に書いた1通の手紙を転送してもらった。その手紙の中で前田さんは、当時のメンバーが帰国後、いつも集まり、あの素晴らしかった時間を回顧していると書き、また、北京に来て、私と当時通訳を担当した陳月霞女史に会いたいと書いてあった。そして「もし彼らがすでに、この世を去っているなら、墓参りをし、花をたむけて、遺族の方々に感謝の意を表したい」とあった。

 4月、前田さんの一行7人が中国にやって来た。彼らは回り道をして、香港を経て、当時のルートをもう一度たどって来た。私たちは天安門広場で彼らを迎えた。私が感動したのは、彼らが、当時の日程表やメニュー、私が書いたメモを全部持ってきたことであった。それはすでに黄色く変色していた。

 今年4月23日、我々はお招きを受け、日本を訪問した。大阪の関西空港で彼らは巨大な横断幕を振って、歓迎してくれた。その夜、我々はホテルで長時間、懇談した。当時、団長をつとめた中井常生さんは、不治の病を患っていたが、家族に付き添われ、病院から来てくれた。

  私は、覚えたての日本語で、『北国の春』を歌った。前田さんも中国語でこれに唱和した。「中国語でこの歌をあなたに歌ってあげる夢が、ついに実現しました」と前田さんは言った。

 1956年から今日まで、ちょうど40年。当時の若者は、すでに白髪の老人になった。しかし、人と人の間の情誼は、依然として昔と変わらない。中日関係がもっとも緊張した時であっても、両国人民の友好の足どりを、誰も阻止することはできないのだ。



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